江戸川柳の補足 5月16日 青野正宏
歴史系
屋根葺きも井戸掘りもした帝(みかど)さま
中国三皇五帝のひとり舜のこと 親に屋根葺きを命じられ下から火をつけられ
井戸掘りを命じられて穴埋めにされそうになったという説話がある。
釣れますかなどと文王そばにより
文王は周の王 釣りで有名な太公望の助けにより息子の武王のとき、殷を倒した
最初の出会いはこんなものだろうというもの
十人の上は大目に御覧なり
聖徳太子は10の訴えを同時に聞き分けたというがそれを超えると
聞き分けられないので大目にしただろうという推定
年号の初め鎌にて鹿を切り
大化の改新 藤原鎌足が曽我入鹿に切りつけたわけではないがそう見做している。
よいしめりなどと時平初手は言ひ
時平の讒言により流された道真は怨霊となって雷を落とした 雨の降り初めは
のんきに構えていただろうという推測
衣川てきと味方で一首出来
源義家が安倍貞任を追っていたとき、下の句を義家が投げると貞任が上の句を返したと
いう故事による
「年を経し糸の乱れの苦しさに」 「衣のたて(館)はほころびにけり
まさかりとどてら一つで抱へられ
金太郎のこと
叡山で碁盤をながめるふてえやつ
碁盤は京都のこと 平将門は叡山で京都を眺めて乱を
起こす決意をしたとの話がある。
義朝は湯灌を先へしてしまひ
源義朝は風呂場で殺された
清盛は仏のために迷はされ
神仏の仏でない、清盛に寵愛された白拍子の祇王は
仏御前が現れると祇王を追い出すという平家物語の話から。
入道は真水をのんで先へ死に
壇ノ浦で平家は滅んだが、清盛はその前に死んだから死に水は真水だった
そのあした橋のらんかんきずだらけ
五条の橋 義経と弁慶
木曽山は朝日粟津は夕日なり
木曽義仲は旭将軍と呼ばれたが粟津の戦いで戦死した
伊豆の海よりまだ深い池の恩
源頼朝は池禅尼の助命嘆願により伊豆に流された
五条ではぶたれ安宅でぶちのめし
弁慶は五条の橋で義経に打たれたが安宅の関では義経と疑われないため、義経を叩いた
佐野の馬戸塚の坂で二度ころび
能「鉢の木」から 佐野源左衛門は、僧に身をやつした北条時頼を盆栽の鉢の木を燃やして
もてなした 鎌倉から緊急招集がかかったとき、佐野ははせ参じたが貧乏だったので
馬もやせ衰え、鎌倉手前の戸塚の坂で二度ばかり転んだであろうという推定
三郎は筆で毛虫をはらひのけ
高のりは書き損なうと又削り
児島三郎高徳は、隠岐に流れる途中の後醍醐天皇に桜の木を削って天莫空勾践 時非無范蠡
と書付け天皇を励ました
風上に居て楠は采を振り
千早赤坂の戦いで楠正成は糞尿を振りまいて戦った
ずぶ濡れに成って帰ると歌書を買ひ
実のならぬ花で実のある返事なり
狩の途中で雨に会った太田道灌は蓑を借りようとして農家を訪れるが、山吹の花を
差し出され、古歌の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」から
蓑がない という意味がわからなかった。意味を知った後、歌の道に目覚めた
桔梗より盛りの長いさるすべり
さる人の系図をきけば草履取
桔梗は明智光秀の紋所 さるは豊臣秀吉
御利運なはず原までが御味方
三方ヶ原の戦い
所感
歴史的事実より伝説を題材にしたものが多い
そのほうが面白いから
江戸時代から家康には遠慮、秀吉については容赦ない
文学系
真っ白な名歌を赤い人が詠み
「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」山部赤人
茶ののめる庵は都の辰巳也
「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」
気強いと気の長いのが九十九夜
深草の少将が九十九夜小野小町のところへ通ったが心願成就の百夜の前の
九十九夜で死んでしまうという話から
雪の謎とけて御簾(ぎょれん)を巻揚る
枕草子香炉峰の雪から
石山でできた書物のやわらかさ
紫式部は石山寺で源氏物語を執筆した
九十九はえらみ一首はかんがへる
定まった家のあるのに山で書き
藤原の定家は小倉山荘で百人一首を選んだ 自作も含む
音のした池へ翁の影うつり
芭蕉翁ぼちゃんというと立留り
古池や蛙飛び込む水の音
翌年は千代井戸端をよけて植え
「朝顔に鶴瓶とられてもらい水」加賀千代女