学生時代の北海道旅行 象徴的な思い出
令和5年9月22日 梶田誠三
1 ユースホステル部の行事、S.36年夏の合宿地は富士五湖から御殿場であり、終了後に北海道の旅を4人で予定していた。御殿場の東山荘YHを利用したのだが、私が40度超の熱を出し、3人の仲間には先に旅立ってもらった。たまたま同宿されていた東京広尾の日赤の看護婦さんが、深夜にも解熱剤を処方されるなど、献身的な対応にも関わらず熱は下がらず、2〜3日後に次の旅先へ移動された。私はやむなく大阪に帰ることにした。
自宅に着いて熱を計ったら、何と平熱だった。翌日には3人組を追いかけるべく、時刻表で調べると、利尻・礼文島に渡る稚内港で合流できる。大阪−東京−青森−青函連絡船−函館−札幌−稚内を車船泊をしながら追いついたのである。
2 次は狩勝峠である。旭川から富良野線で富良野に向い根室本線に乗り換えて狩勝トンネル(974m)を抜けると十勝平野の大展望である。国鉄時代の車窓随一の雄大な景観として知られた峠である。宮脇俊三さんが「時刻表昭和史」の文中で、父の所用で富良野に行くことになり、中学生の宮脇さんも同行されたのである。昭和17年とのことで、私の生れ年にあたる。その時の狩勝峠は濃い霧で何も見えなかったと。
昭和41年9月に急勾配緩和のため線路変更が行われ、新狩勝トンネル(5,790m)が完成したのである。車窓風景は一気に劣化したことであろう。この新トンネルを通過する石勝線がS.56年(1981)開通した。今年9月4日の夕刊記事によれば、2016年の台風で被災した富良野−新狩勝トンネル間は2024年3月末をもって廃止されるとのこと。
3 続いては日高本線である。今年7月7日の文化欄の記事「消えた日高本線 鉄路の記憶」に目が吸い寄せられた。筆者は襟裳岬寄りの終点・様似駅の2つ手前の浦川駅を最寄りとする浦川町出身の松山さんである。松山さんが日高本線の写真を撮り始めたのは小学4年生の頃であると言う。その後は進学や就職で浦川を離れても、帰郷した折には列車や関連風景などを撮りまくったらしい。32歳でUターンしてからも、足を運び続けたと書かれている。その日高本線が2021年3月末をもって廃線と決まったのは、2020年10月のこと。
2015年1月の高波被災で鵡川−様似間(全線146.5qのうち約8割に当たる)が運休されていた。松山さんは復旧されるものと信じて疑わなかったと書かれているが、復旧に一縷の希望を託されていたのだろう。北海道内のJR線の廃線はおびただしいものである。
松山さんは40年間に渡って撮影してきた写真を後世に残すべく「日高本線 フォトブック」 として2022年3月に自費出版されている。
我々4人組が旅行した当時の北海道には、均一周遊券では周りきれない国鉄線が地図上に充満していた。襟裳岬に向かう時も帯広から広尾まで広尾線に乗車した。様似から苫小牧の日高本線は全線乗車した思い出の線である。