菅原道真の蹉跌(その1) 2月15日 飯田朝明
1 北野天満宮
太平洋高気圧が勢いを増すと、日本列島には東南からの風が吹き始め、春が到来し、その一方、若人たちがしのぎを削る受験シーズンがやって来る。私は、30歳半ばころ、京都の北野天満宮を参詣した。祭神は、言うまでもなく菅原道真である。
参道にはほころんだ梅の木々が立ち並び、どこからともなく、鶯の鳴き声も聞こえてきた。さすが天満宮と感心したが、よく見ると梅の根元には電気のコードが延びていたのである。つまり、その鳴き声は、スピーカーから流れていたのだった。少しばかり興ざめしたが、それから本殿へと向かい賽銭を投じて参拝し、合格祈願の絵馬が所狭しとばかりに吊るされた奉納場所を見ながら外の通りに出た。
東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな
この歌は、「梅の花よ、東風が吹いてきたら、私のいる大宰府まで匂いを運んできてくれよ、主人がいなくなったからと言って、春を忘れるなよ」の意で、道真が左遷されて大宰府に旅立つとき、自邸の梅の木の前に立って詠んだと言われている。始めから「東風吹かば」、「匂ひをこせよ」、「梅の花」と春を代表するような語句が出てきて、「主なしとて」と「春を忘るな」という否定的、願望的表現が後に続いて出てくる、流れる水のように詠まれた歌で、「東風」という言葉が出てくると、自然に思い浮かんでくるような秀歌だと、私は思う。
なお、最後の句は、「春な忘れそ」としている本もあるが、拾遺和歌集に載っているこの歌が、道真が実際に詠んだものだとされている。
2 道真官人となる
菅原道真は、845年(承和12年)菅原是善とその夫人伴氏の3男として生まれたが、幼少の頃より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んでいる。862年には、18歳で文章生試を受験し、合格して文章生(もんじょうしょう)となり、23歳で文章得業生となるが、当時としては、これはかなり若かったと言われている。
その後官吏登用試験である「対策」と呼ばれる博識と文章表現の高度さを求められる試験に合格するため、猛勉強をする。その様は、帳(とばり)をおろして戸を閉じて籠もり、儒教経典を勉強して、美しい景色があったとしても漢詩を詠むことはほとんどなかったとされている。こうして彼は、870年には対策に合格し、26歳で官人世界に出た。 このころから、政治や実務に役立たない詩など無用だという、詩人無用の声が出始めたが、官人としての道真は、位階を進め、874年民部少輔に任ぜられた。当時の朝廷の第一人者藤原基経も彼の文才を評価し、877年世職である文章博士を兼任する。880年には父が没したため、祖父清公以来の私塾である菅家廊下をも主宰するようになり、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。
その後、道真は、886年(仁和2年)に讃岐守を拝任、文章博士等を辞し、地方官として任国へ下向する。左遷だと言われており、送別の宴で摂政の基経から詩を共に唱和するよう求められたが、落涙、嗚咽して一言しか発せなかったという。讃岐での彼は、生来の生真面目さから国司として良吏であろうと努めたが、都への思いは捨てられず、その両者がないまぜになっていたとみられるが、讃岐守としての生き憎さを「世路難於行海路」と詠み、讃岐へ帰る「海路」よりも「世路」(世の中を生きていく道)は難しいと慨嘆している。