沖縄戦と牛島満司令官(その4)7月21日 飯田朝明
4 戦火と住民
沖縄県民を島外疎開させようとする計画は、渡辺司令官の時から進められ、軍事物資等輸送船の帰路に、老人、学童、婦女子などを乗せて日本本土や台湾に疎開させようとしていたが、続々と到着する増援を見て県民の恐怖感が薄れ、なかなか疎開が進まなかった。その後、軍と沖縄県の尽力もあって、牛島着任時には、疎開が軌道に乗ったように見えたが、8月22日に対馬丸が撃沈され、学童等1400人が海没した。それでも、1945年3月までに、沖縄本島から8万人、八重山列島より3万人の住民が疎開している。
その後、軍は沖縄北部地帯への疎開を進めるが、マラリア発症地の山岳部に避難しようとする住民は少なく、遅々として進まなかった。このため、沖縄県は、家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用食料とするなどの策を講じ、戦闘開始までに、8万5000人を北部に疎開させた。なお、これらの住民は捕虜となったが、その後生き続けることができた。
5月27日に軍は首里の司令部を放棄したが、沖縄県民も共に南部に逃れ、その多くが戦闘に巻き込まれ、多大な犠牲者を出した。牛島に南部撤退案を進言した八原は、戦後生き残り、「多くの老幼婦女子を痛ましい犠牲としたのは、実に千秋の恨事である」と悔やんでいる。そして、戦後、彼は沖縄を2度と訪れることはなかった。
ところで、現在ウクライナでは、ロシア軍との間で戦闘が行われている。マスコミは、この様相を毎日のように伝えているが、それを見ても一番心配されるのは戦闘地域の住民のことである。激しい戦いが行われた同国南部のマリウポリでは、抵抗した側の降伏という形で戦闘が終わったが、製鉄所に多数の住民が避難して何日も地下暮らしを余儀なくされた。人道回廊を設けるという話が何度もあったが、それが本当に機能したのかは定かではない。また、避難している住民の状態やロシア軍のロケット砲の発射場面を映像で見るにつけ、沖縄で起きたことが、この21世紀にそのまま再現されているとしか思えず、正に他人事とは思えないものがある。
こうした現状や沖縄で起きたことを考えると、戦争は実際に行われているので、両者それぞれの言い分はあるのだろうが、非戦闘員の住民については、まったく別物と考え、認識することが必要なのではないかと私は思う。皆さんもそのように思われませんか?そうであれば、何をおいても先に、住民の安全を最優先させるということが必須で、そのための国際的合意をとりまとめ、各国は絶対にそれに従うということにしたらいいのではないか、そんな難しいことではないと思われるが、これを理想論だとして簡単に片付けないよう願っている。
(参考;「太平洋戦争 主要戦闘事典」 「ウィキぺディア フリー百科事典」