沖縄戦と牛島満司令官(その3) 7月19日 飯田朝明
3 沖縄戦への批判と八原高級参謀
沖縄戦での牛島の指揮は優れ、これに苦しめられたアメリカ軍は、「牛島は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していたとし、その円熟した判断力、長の軽快にして突進型の勢力、八原の機敏な識別力が三位一体となって、第32軍を強力な軍隊にしていた」と評価している。
牛島軍に対するこうした高評価の一方、アメリカ軍は、当初から、神風機の猛攻撃に晒されていた海軍首脳から、上陸軍の侵攻速度が緩慢であるとの詰問を受け、その後、1月以内に終結するとしていた作戦が大幅に遅延したことから、マスコミからバッシングを受けた。更に南部攻撃時には、連合軍最高司令官マッカーサー元帥から、南部はむやみに攻撃せず、牛島軍を包囲するだけでよかったとの批判も受けている。
また、沖縄戦で多くの兵士と住民の犠牲を出したことにより、日本における牛島の評価は分かれている。彼は万事を参謀長に一任し、自らは責任のみ負うとしていたが、大打撃を受けた5月の攻勢は長参謀長の提案であり、南部へ撤退は八原の進言であるが、その判断は誤っていたとする指摘がある。
高級参謀八原博道は、日本軍の戦略持久作戦の立案者である。彼は、鳥取県米子市の出身であるが、頭脳明晰であったことから陸軍士官学校に進学した。その後、陸軍大学に進み、30歳過ぎにアメリカに2年ほど海外留学している。そして、アメリカ社会を知るため、近隣の人たちと交流し、同国内の要塞で将校としての勤務も行っており、アメリカ人の考え方や桁違いの工業力に大きな感銘を受けている。このアメリカに対する正しい理解は、後の沖縄戦の指揮に活かされることとなった。
また、彼は、豪雨のある夜、フィラデルフィア南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却していた際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆け付け助けてくれた、このアメリカ人の善意を忘れることはなかった。だから、「アメリカは文明国なので、よもや民間人を虐殺するようなことはしない。」と信じていた。
八原は、牛島の命により、彼の死を見届けたのち、大本営への通報と戦訓を残すため戦場を離れるが、その後、アメリカ軍の捕虜となり、のちに復員する。旧軍人の中でも、アメリカの捕虜となって生還した彼を、「軍人の面汚し」だと白眼視する者も多く、葬列に参加した旧軍関係者は5人だけだったという。
(続く)