行く秋に寄せて(その2)    11月18日     飯田朝明

 薬師寺は、飛鳥時代(680年)に、天武天皇が、鵜野讃良(うののさらら)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して建立を発願し、建設が始まった。天皇は完成を見ずに崩御したが、それ以後即位した天皇に引き継がれて完成したものである。造営地は、当初は藤原京だったが、のちに平城京に移転しており、東塔が完成したのは、天平2年(730年)である。なお、当時の寺の堂塔は、その後の自然火災や兵火により、ほとんどが消失してしまい、東塔のみが残っていた。
 そうした状況が昭和時代まで続いていたが、昭和43年(1968年)から、寺の名物管主として知られる高田好胤のもとで、伽藍の復興事業が開始され、同51年に金堂、同56年に西塔が再建され、その後、回廊や大講堂などの建物も次々と再建された。
再建された金堂には、銅製の薬師三尊像が安置されている。中央に本尊の薬師如来が、左に日光菩薩、右に月光菩薩が脇侍として置かれており、3像とも金色の光背がある。本尊(高さ2、54メートル)は、濃いブロンズ色をした写実的な姿の堂々とした御仏である。
 持統天皇は、その後病気から立ち直り、天武天皇の亡き後、10年以上にわたって政権の最高実力者として君臨したので、薬師如来のご加護は、確か過ぎるほどあったと推し測ることができよう。
 私は、薬師寺を2回訪ねている。正確な記憶はないが、初めて行ったときは、金堂がすでにあったので、51年より後である。2回目は、西塔再建時、「両塔(東西の)並び立つ」という(寺自体か旅行会社の宣伝文句?)が世に流布されたこともあり、どうしても東西の塔と金堂が揃っているのを見たくなって、再訪したのである。だから、私は東塔と再建金堂がある時と、金堂の前方に東西両塔が並び立つという寺創建時の伽藍配置になったときの両方を見たことになる。
 どちらも季節をはっきりとは覚えていない。秋ではなく、春と夏だったような気がするが、最初の時と2度目は、印象が異なる点もあったが、いずれにしても、前述のような印象を受けたのは変わりなく、また、佐々木信綱のこの歌を知っていたし、和辻哲郎の名著「古寺巡礼」なども読んでいたので、それらと重ね合わせて、そのたびに、多大な感銘を受けたのである。
作者の佐佐木信綱(1872年〜1963年)は、三重県鈴鹿市に生まれ、国学者の父のもとで、幼少のころから和歌を作ったと言われている。成長してからは、東京帝国大学文学部に入学、卒業後は、同大学で和歌の教授を続けながら、万葉集等の古典の研究をし、多くの貴重な業績を残すとともに、多数の歌集を刊行した。
唱歌「夏は来ぬ」は、彼の作詞である。
 なお、「佐佐木」という苗字は、元々は「佐々木」だったが、「々」という字が中国の漢字にないため、「佐佐木」に改名したと言われているが、彼の古典へのこだわりを感じさせる話である。
(完)