Stay Home: 私の日本百低名山の体験(3)
社会人として、登山でリラックス! 10月6日 御法川齊
1)1965年に就職後、同期入社で同じ工場に配属になった連中20名の中に信州出身がおり、山好き連中で1967年に槍ヶ岳、白馬山、唐松岳縦走は車中泊(辛かったね)&山荘泊だった。断捨離片付けで記念のミニ盾を発見。1967年の月山8合目弥陀ヶ原は雨に祟られたが、2013年7月にリベンジ。
2)1971年4月1日に弟と武甲山登山。数日の寒さで雪が少々積もっており、危険なため途中で下山。
⇒リベンジではないが弟と一緒に立山登山。浄土山―雄山ー大汝山3015m、雷鳥に運よく出会った。
3)1972年には開発部HIC先行開発Grで安達太良山登山。二本松からくろがね小屋泊。
その後、暫くは仕事が超多忙で登山は封印の状態だったが〜〜
4)1992年から2年程担当部署が代わりストレス解消のため休日に1人ハイク・低山登山。
この頃は道で出会った人に話しかけ、良く交流しました。
主に下記の如く北茨城の山々で、車ハイク的なものも含め35件にもなった。
でも地域がら本に掲載されている山は少ない。
*Cf『茨城の山と渓谷』『ふるさといばらきの山』『茨城の自然100選』
*Cf 日本百低山(日本山岳ガイド協会編,・幻冬舎)に掲載は茨城県では神峰山、吾国山の2山。
*Cf 日本100低名山を歩く(低い山を歩く会・角川新書)では高鈴山・御岩山と筑波山の2山。
当時、タイプライター代わりに流行り出したワープロを購入し「ミニ・ハイク記」として記録した。
断捨離で引き摺り出して、少年期12〜15才時との想い出と比較し懐かしく見直す。
余談だが、太田近郊の男体山の下山時に草原と疎林の空き地を歩いていた際に地の底から人の声が聞こ
える気がしたので、付近を覗いたら直径4m程、深さ2mの穴に落ちている青年を発見。付近にあった
丈夫な樹木切れ端に掴まって貰い、何とか引き上げた経験あり。本当にビックリ!後日、礼状あり。
*吾国山518mは愛宕山と共に、付近に駐車し1.5時間で回った記録がある。
*八溝山1022m。車で頂上に行けるが、日輪寺駐車場に車を置き表参道、下りは日輪寺コース5qを歩いた。2月27日で薄っすらと雪があり曇りがちで生憎の展望であったが、茨城県の最高峰に登った事になる。秋には袋田の滝と月居山つきおれ、花貫渓谷と土岳も良い。
*竪破山たつわれ658mの巨岩・奇岩7石3幕(滝)、黒坂命の謂れで有名な黒前神社等でお奨めです。
「ミニ・ハイク記」に、“この付近では高さで他を圧し、双眼鏡の活躍で筑波山は言うに及ばず全ての山々が一望できた。また、山の気を味わいたい山である”の記載があるが、再訪していないのは残念。
川尻から入り「茨城百景の碑」が立つ登山口に駐車し、太刀割石を経て黒前神社、頂上に1時間、帰途は同じ道を45分で戻る。太刀割石は直径7mあり「常陸風土記」によると黒坂命は土地の賊退治に出掛け茨棘とげに引っ掛けて退治をしたことに因んで県名を茨城にした。その後、蝦夷征伐の帰途に現在の竪破山で病没した。黒坂命を祭ったのが黒前神社である、と。
黒前神社は以後、坂上田村麻呂が社殿を再興、源義家が奥州征討に向く折一振りの太刀を授かる夢を見てその太刀で巨岩を切り付けた所、真っ二つに割れ一方は其の儘立ち、片方は敵軍に向かって倒れ全軍の士気が大いに上がったと言われ、太刀割石(将軍石)と呼ぶようになった、と。
*その他に、鷲の巣山402m登山は山造登山口に駐車、袋田駅から山造にタクシーで。付近は金砂郷と呼ばれ、昔は金鉱があった。この頃は良く金色の石を拾って帰りました。似た名前の鷲の子山とりの460mは栃木県境・美和村に紙漉きの里と共に神社の御神木・千年杉、紅葉等で人気。当時、朝日新聞で「日本の自然百選」にも選ばれた。
*なお最近、金砂郷は在来種から生まれた「常陸秋そば」が薫り高く福代かな甘味で有名になり多くの人がそばの郷に押し寄せる由。小生も昔の素朴な風味の味わいを思い出して再訪の機会を狙っている。
添付写真1 2 月山 13年7月も雨だったが高山植物は十分観察 コバイケイソウ等
添付写真3 北茨城・竪割山:不思議な太刀割り石
以上