遠い遠い昔の思い出話(下)  9月9日 伊地知季

 日常生活における娯楽施設は乏しく、幸い近くにゴルフ場があったので、そこでゴルフをする位がせいぜいの楽しみであり、気晴しの一つであった。 ケニヤはかってイギリスの植民地だったのて現地の白人達がゴルフ場を造り運営している。 一寸した所でもゴルフ場があった。 グリーンは散水して緑を保っているが、フェアウェーは暑さの為芝は枯れて茶色になってしまう。 日本でゴルフ場のメンバーになるには会員権何千万円、プレー費ウン万円などと、それこそ生活費を圧迫する様なばかげた費用がかかるが、ケニヤではそんな事は全くない。クラブに入会するには、推薦人(セカンダー)2人を立てて、名前と職業と地位と国籍を書いてクラブハウスの掲示板に4週間程掲示してそのクラブのメンバーから何のクレームも出なければ当時の日本円約9千円を払えば入会出来た。メンバーはプレー代不要で、キャディーフィーだけである。 キャディーフィーはハーフで4シリング、1ラウンドで8シリング位であった。1ラウンド回っても400円位であった。 プレーする時のキャディーは専属である。 プレー毎にキャディーを変えるとボールがなくなったり、クラブがなくなったりとトラブルが出ると聞いていたので専属にした。勿論男性である。専属なのでキャディーフィーもチップをはずんでせいぜい500円位でプレーしたものだ。イギリス人に日本でゴルフをしたらいくら位お金がかかるのか聞かれて、「さあ2万円から3万円位かな」と云ったら「オー クレイジー」と云われた。
 プレーしている周りの人達は白人、特にイギリス人が多く、マナーはとても厳しかった。ある時フェアウェーで前の組の人達の近く迄ボールを飛ばした人がいた。 決して打ち込んだわけではない。 前の組のイギリス老婦人はうしろの我々をにらみつけ、打ったボールの所までつかっかと歩み寄り、そのボールをつかみ上げるやそのまま草むらの中へ投げ捨ててしまった。 そして早速あくる日私のところへクレームレターが届いた。 「マナーが悪い、厳重に注意せよ」と。
 工事中は月1回程工事関係者へゴルフコンペの召集をかけると、イギリス、イタリー、ドイツそして我々日本人が皆夫婦で集まり、楽しくプレーをしてビールを飲んだり語らいなどをして一日を過ごしたものであった。この様にして工事に携わる人達と積極的に親しくなることも仕事の一つでもあった。
 そんなこんなで工事も順調に運びエ期に間に合わせたことは、 ケニヤでは全く驚異の的
であり、多くの関係者から大変喜ばれ我々も感激したものだった。私共一家がモンパサを去る時、空港に多くの人々が見送りに来てくれた。コンサルタントのイギリス人老夫婦、協力会社のイタリーの人々、当初住んでいた家主のパキスタンの一家、子供の友達のオランダ、インドの人達、その他多くの人々で狭い空港ロビーが一杯になった。あてがないにしても、いつの日か又会いたい希望をお互いに抱き、約束し合った。 私共の乗った飛行機が駐機場を離れる時、白いハンカチをまぶたに押当てている人達、又見えなくなる迄手を振り続けてくれている多くの人達が窓の外に見え、家内、子供達共々目がしらをあつくし大変な感激であり、生涯忘れる事が出来ない充足感に満ちたひとときであった。不自由な言葉、そして不慣れな異国での仕事を補ってくれたのは我々の示した「誠意」ではなかったかとつくづく思いしめた。
 現在毎年1年に2回ゴルフと食事会を行っている。食事の後出る話は、みんなして車を連らね国境を越えてタンザニアに行った事、あの時だれかさんの車がパンクして往生した事、万年雪を冠ったキリマンジャロの美しかった事、ライオンとサイが突然車の前に現われてこわかった事、あのハウスメイドさん、ハウスボーイさんは今どうしているかな等々、思い出話をしているときりがない。そしていつも最後に出る言葉は「みんなでもう一度行こうよ。
これだけ揃えば飛行桟もチャ一ター出来て安く行けるんじゃない」である。
 遠い遠い昔の思い出話である。

(完)