歴史発掘    桂太郎―日露戦争を導き、支えた宰相 (その6)
              6月17日              飯田朝明


(4) 桂の個性と政治手法
当時の政権は、反対勢力の協力を得たいとき、議員に対しては、歳費を上げたり、実際に買収したりすることも行っていたようである。ところが、桂は、現ナマを持っていくようなことはせず、巧みに相手の心をつかむようなことをして、その協力を引き出した。
エピソードであるが、毎年天皇統監のもとに行われる陸軍大演習が大阪であったときのことである。桂政権に対する反対勢力の代表格の板垣退助をはじめ、貴衆両院の議員を招待するのであるが、桂は、板垣には陸軍の名馬を供して首相の山縣と轡を並べて観覧させ、その後の大宴会には板垣の席を玉座の近くに設けさせた。こうして、板垣は、陛下とご対話されるなどの光栄に浴した。板垣の側近は、涙を流して喜んだそうである。
また、代議士への待遇も厚く、富豪の邸宅を宿にさせ、主人夫婦は礼服を着用して朝夕の挨拶や送迎をしたりし、帰宅時には、下男、下女に、足を洗わせたりした。彼は、このような至れり尽くせりの歓待をするよう取り仕切ったのである。東京に帰るころには、反対派の代議士の空気は、一変していたといわれる。
桂と、伊藤博文と吉田茂とを比べてみたい。
伊藤博文は、明治の元勲筆頭であり、威厳を具え、優等生的である。また、その最後も、朝鮮独立運動家による暗殺という劇的なものだった。また、昭和の元勲と言われる吉田茂は、貴族的な面があり、紋付白足袋姿がトレードマークだった。第二次大戦講和をめぐって、全面講和を主張する当時の東京帝国大学総長を曲学阿世の徒と罵倒したり、いわゆる馬鹿野郎解散なども行ったりして、話題に事欠かないところがあった。
この2人は、同時期の政治家や国民から見れば、良くも悪くも自分たちとは異なる、一つも二つも上のステージにいる存在だったのではなかろうか。
ところが、桂は、同時期の政治家や国民から見ると、自分たちの目線の高さと、あまり違わないのである。「ニコポン」と言われるように、誰にも愛想がよく、腰が低く、威厳もあまり感じさせない。そのうえ、桂は自分の見解を人に押し付けるようなことはせず、相手の方に自分が近寄り、合わせることにより、自らの政治的なねらいを達成するようにしていたのである。そうしたことから、実際には、うまく丸め込まれていたとしても、相手は、桂とは自分が同調してしまっているので、それをはっきり自覚することも少なかったのではないか。
このため、政府高官も政治的な敵対者たちも一般国民も、彼とは距離感がないので、桂が、実はすごいことをしていたとしても、そのことを誰も大そうなことをしているとは感じなかったのではないか。また、維新第二世代と言われる桂と同世代の有力な政治家は競争意識もあり、あるいは、政治的対抗勢力に属する者は、忌避していた藩閥の申し子的な存在だったことから、桂を評価したくなかったのではないかとも思われる。
日露戦争後、桂は、伊藤と同様に政党の重要性に気づき、政党を作ろうとして、その活動の半ばで、前から患っていた病気が悪化し、世を去った。この頃までには、親分と言われた、山縣とは確執が生じていたが、これは、個人的なものではなく、政治姿勢の相違から来ているものだった。山縣は、自分が政権を担当しているとき、政党に苦しめられたため、極度の政党嫌いだった。彼は、政党は徒党を組んで秩序を乱す存在としか考えていなかった。本来の政党の意味が分かっていなかったのである。このことからも、桂が、山縣の単なる太鼓持ちではなかったこと、桂の政治的理念が山縣を上回っていたことが見て取れる。

まとめ
桂が、日英同盟を成立させるなどして日露戦争を導き、ポーツマス条約を締結させたことを前述した。それだけでなく、戦争終結後においても、韓国の保護国化と陸奥宗光も大隈重信もなしえなかった、全面的な欧米諸国との条約改正を勝ち取っている。第2次世界大戦後の日本においては、一内閣一仕事ということが言われているが、桂は、一つどころか、四つの大仕事をしたと言えるのではないか。
なお、韓国の保護国化については、桂と小村が植民地主義者だったのではないかという見方もある。が、その前に、2人は、朝鮮半島の地政学上の重要性を認識し、その南端(この時は、39度線である。)までロシア軍が進出してきたとき、日本の安全にとって、重大な脅威にとなるとの判断が基礎にあったことは、間違いない。今も日韓関係に尾を引いているこの問題は、当時のアジア全体の情勢を考慮に入れなければ、正しい結論が出ないのではないかと思う。
明治憲法下の桂の時代と新憲法による現在とは、内閣総理大臣の選任の仕方や日本の政治情勢が大きく異なっているので、単純な比較はできないが、「内閣総理大臣」が、日本の国政を動かす最高位のリーダーであることは、今も、まったく変わっていない。
その最高位のリーダー、それを目指す人、政治家が、いやそればかりか、一般の国民も、桂の生き方とその時代を知ることは、それにより、グローバル化が急速に進展する中での今後の日本の政治の在り方や活動を考え、向上させるための大きな教訓やヒントを得ることができるのではないかと考えている。
桂は、それまでに患っていた胃がんが急速に悪化し、葉山、鎌倉と転地したのち、東京三田の自邸に戻り、大正2年(1913年)10月10日に息を引き取った。葬儀を国葬にしようとの話が持ち上がるが、その時の首相山本権兵衛と内相の原敬は、前例などを考慮して国葬にしなかった。
桂の葬儀は、東京芝の増上寺で盛大に営まれ、会葬者は数千人に達した。桂の施政に反対し、憲政擁護運動に加わって第三次桂内閣を倒したはずの民衆も、大挙して押し寄せ、桂の死を悼んだという。                        (完)                                              
(参考)
 「桂太郎―日本政治史上 最高の総理大臣」(祥伝社)
「桂太郎」、「小村寿太郎」、「大隈重信」、「元老」(4冊とも、中央公論新社)
「坂の上の雲」(文藝春秋)
その他