「湘現かわら版たまて箱」から再録
ベストからベターへ
堀井利修
私の住む鵠沼には普段比較的静かな時間が流れている。二ヶ月程前、朝四時ごろ突然鶏の雄叫びで目を覚まされた。何事が起こったかと止むを得ず雨戸を開けると夜が明けかかっているが、まだ良く見えず鶏の姿は無い、鶏は何度も時を告げるので隣家の庭にいる事が解った。
私は普段一時から二時に寝るので、頭がはっきりしないがもう眠れないので起きて読書を始めた。恐らく隣家はみなびっくりしているだろうとぼんやり思った。本のおもしろさとその日が始まり鶏の事はすっかり忘れていた。次の朝方再び雄叫びで起こされ何んと言う事だと腹が立った。鶏は毎朝真面目に明け方時を告げた。
抗議を考えたが、まず自分自身で解決出来ないか試した。耳栓をしたり、カーテンをダブルにしたが起こされる。日中寝不足の為体がだるいのには参った。
そんな或る日、鶏の家に向かって、隣人が外国語でいかに迷惑かを約一時間延々とはっきりした大きな声で述べた。(どなるのでなく主張である)家々に電気が点り、聞き耳で囲まれた。朝の大気は一層緊張感で引き締まった。鶏を飼う家からは一言も発せられずに終了した。住民は誰かがどの様な方法かで抗議しようと決心していたので、この淡々とした抗議にほっとして家々が朝の営みを始めたのを感じた。
毎朝早く起こされるので早く休むことも試すが長年の習慣で簡単ではない。私の幼い頃には鶏がいるのは珍しく無かった。人々は鶏と共存していたのである。
今、私達は自分達の思いをピュアーに追及し、鶏を始め様々な自然の仲間達を排除して来て居るのではないか。これは自然の生物として傲慢な振舞いではないか。
私達が材木が必要であれば南の国々の山林が失われるまで買いまくり、彼の国に水害をもたらしたり、植物の生態を損じ、一方日本でも古材を燃やし大気を汚染し続けている。
これは鶏を飼う人が普通でそれを排除しようとしている自分たちの方が異常ではないかと反省させられた。新たなものを取り入れない保守性である。
地球の一員である私たちは常に中庸を心掛け、無駄や欲望をコントロールしなくてはならないとつくづく思わされた。
数日後、鶏を飼う家からお詫びの品が隣家に配られた。さらに次の日雄叫びが止まった。
私は食べられちゃったのかと心配したが朝七時には再び雄叫びが大気を響かした。
飼主は黒のカバーをかけて時差をつけたのである。