今が青春18切符くらぶ 第33回行事 H.28年8月1日(月)~8月5日(金)
熊本復興応援ツアー 平成28年9月 梶田誠三
熊本地震が発生したのは今年4月14日のこと。東日本大震災の記憶も冷めやらぬ時期に発生した。今年夏の青春18切符の第2弾は只見線が予定されていたが、スケジュール上から無理だとのこと。熊本行が計画されたのは熊本地震の発生に伴うものであり、更には鉄道ファンにとっての命題が背景にあろう。
その命題とは、【青春18切符一枚で一体どこまで行けるのか】である。
時々の事情によって変化するので無欠な答えはないが、その都度の答えは出る。私が青春18切符について関心を持った頃は、福岡と熊本の県境を越えたばかりの荒尾駅であった。荒尾と言われても良く分からぬ地名から、一般的には熊本(県)まで行ける、と言われていた。その後、列車のスピードアップやダイヤグラムの変更などで、今では熊本駅、ダイヤ上では八代駅まで可能である。0時頃のチェックイン可能の宿の有無は知らず。
今回の旅は参加者7名で熊本に向い、熊本からの帰途は3班に別れた。主力隊は桑原、若狭、鈴木さんの3名で、極力タイトルに叶う行動を貫かれた。熊本1泊は全員参加だが、主力隊は更に菊池温泉で1泊することにより、観光客の減っている中で貢献しようと行動してくれたのだ。頭が下がる思いである。木暮さんは、この機会に子供の頃の疎開先である壱岐を訪ねんとする計画だと言う。年齢からして訪ねられるのは最後になるだろうとの思いもあったらしい。これまた、崇高な行動である。一方の我が隊は阪川、佐藤さんの両人がこの指とまれの指にとまってくれたおかげで組成されたのだ。殆ど観光一色の中で、光るのは阪川さんの墓参りであった。
8月1日(月) 車中泊「ムーンライトながら」指定席@520円
戸塚23:30-大船23:36-(平塚23:57-大磯00:01)-00:18小田原
参加者7名大船駅に集合。各自大磯までの乗車券を持って、大船23:36発の熱海行に乗車。小田原駅で快速「ながら」に乗り換えるべく各停熱海行を下車。
8月2日(火) JR九州ホテル熊本 @6,680円
小田原00:31-05:50大垣05:53-06:27米原06:29-(新快速)-09:17姫路-
09:40-10:00相生10:30-⒒:38岡山⒒:47-12:45福山12:51-13:19糸崎13:23-
15:36岩国15:38-18:41下関18:58-19:11小倉19:29-21:28荒木21:29-22:05
荒尾22:06-22:50熊本
小田原で乗車するのが不定期夜行快速「ながら」である。現役時代は定期列車、自由席で通勤に何度も利用させてもらった懐かしき列車である。その後、指定席不定期列車に変貌を遂げた。人気列車であり、1ヶ月前の発売日に指定席券を購入しないと利用しがたい。今回は若狭さんのお世話を頂き入手出来たのである。
7名全員が上記ダイヤで熊本駅に到着する予定であったが異変が発生した。岡山駅でのこと。乗換時間は上記通り9分しかない。階段の昇降も伴うので余裕はない。重要な忘れ物をしたため予定の福山行に間に合わなかった、と携帯連絡が入った。瞬間的に思ったのは、当日中に熊本駅に着く各停列車はなかろうということであった。我々が熊本に着くのでさえ23時に近いのだ。併行している新幹線「のぞみ」で岡山から広島に行って上記の予定列車に乗り込んでもらうとしか考えられなかった。調べてみると我々の列車が広島駅を出るのは13:45発である。岡山発の「のぞみ」で間に合うのは下記4本である。
岡山12:16→12:52広島、以下同様に12:28→13:08、12:36→13:14、12:56→13:31
忘れ物が簡単に見つかるか不明だが、4本の列車のどれかには間に合うだろう。
その後連絡が入り、各停で当日中に熊本到着の列車があるとのこと。JR西日本のテレホンセンターに電話して調べて貰ったという。その気転を利かせる能力に感嘆する。帰宅後に調べてみたところ、確かにあった。記載しおく。岡山12:30-13:52糸崎14:09-16:23岩国16:29-19:55下関19:59-20:06門司20:07-22:32銀水22:40-23:32熊本
8月3日(水) 青海島シーサイドホテル泊 @3,300円
熊本09:12-09:56荒尾09:57-12:31小倉12:38-12:52下関13:43-15:46長門市
16:16-16:20仙崎
熊本での滞在時間は殆どないが、少なくとも朝食前に熊本城は訪ねておきたい。6時過ぎにタクシーに乗車、行けるところまで入ってもらった。熊本城の一画とも言える「城彩苑」で見学できるところを尋ねた。通常時間帯なら見学できる所も、早朝の時間外では殆ど見学不可のことをご存知なのだろう。“ちょっと、お待ちください”と言って店に戻られ、プロの写真家が捉えた詳細な写真パンフレットをお持ちになり、3人に下さった。
ゆっくり見学する時間のない我らにとって、大変ありがたかった。地震発生以来、旅行キャンセルの続いている中で、良くぞ熊本へ来ていただきましたとの心根がパンフに込められている思いがした。加藤清正像の前で記念写真を撮り、市電に乗ってホテルに帰り着いた。
ホテルの朝食会場で全員が顔合わせをしたのも、岡山駅以来のことである。朝食後は3班に別れて別行動となる。主力隊は熊本城見学、義援金「熊本城復興悲願」の願いを込めて寄付、昼食に馬刺し定食などを済ませ、今夜は菊池温泉泊りで明日には熊本を離れる由。その後は姫路泊り、信州・昼神温泉泊りと5泊6日の長期旅行を敢行して6日(土)に家路に着く。木暮さんは冒頭に記した通り、単独で壱岐に向われる。
我が仙崎・高松隊は阪川さんと佐藤さんが6月23日に作成した梶田試案に応じてくれたのである。5泊6日では長すぎるとか、高松の墓参りが出来るとか各人様々の事情があることだろう。
朝食後、ホテルを最初に出るのは我々で、今日は長門市の仙崎を目指す。まずは下関から本州最西端の日本海側を山陰本線で長門市駅に向う。この線は観光列車である「みすゞ潮彩号」が走るルートで、新下関~下関~仙崎間を走る。新下関で山陽新幹線と山陽本線の客を拾い、下関で九州方面の客を拾って一気に仙崎まで運ぶのだろう。
我々の乗った各停と仙崎発の「みすゞ号」は小串駅で鉢合わせをした。山陰本線は単線だから、どこかで待ち合わせをするはずと思っていたが、それが小串駅だった。待ち合わせできる駅も限られることだろう。みすゞ号は小串駅に14:17着、一方の我が各停は8分後の14:25着である。その3分後の14:28にみすゞ号は新下関を目指して小串駅を出て行った。その3分を利用して、私はホームに降り各停の先頭車両の先まで行って、みすゞ号と並んでいる写真を撮っておいた。
こんな細やかなことに喜びを感じるのだ。60才台の頃のワゴン車利用の旅の会の名称を「小さな幸せを探す会」と命名したのも私であった。その会も今は解散してしまった。湘現会会員でこの旅を一緒したのは、故小林光男さん、岡村さん、馬場さん、伊藤さんの面々であり、旅先で良く歩いたもので、今となっては懐かしい限りである。
長門市駅で仙崎行に乗り換えるのだが、たった一駅で終着駅に到着する。今日の宿は青海島にある青海島シーサイドホテル、朝食付きで3千円からと安いのは有難いが、送迎車は用意されていない。念の為、駅前の観光案内所に行って伺ったところ、電話してお願いしてみればとのサジェスチョンを頂いた。
その前にともかく金子みすゞ記念館を訪ねておきたい。駅前通りがみすゞ通りで10分たらずで到着した。閉館の5時まで10数分しかないが、表は時間通り締めますが出口は別にありますからと、都会とは違ってありがたい対応である。記念館を出て少々歩くと、昨年12月に完成したばかりのみすゞのブロンズ像があった。台座には安部首相の揮毫による「みんなちがってみんないい」(「わたしと小鳥と鈴」の一節)が刻まれていた。
我々が訪ねて9日後の12日には、夏休み中の首相が見学した旨の新聞記事が出ており啐啄同時の出会いに感激した。その後も首相と長門市の関連記事が連続して登場した。父の晋太郎元外相の墓参り、更には12月に予定されているプーチン大統領を山口県に呼び、首脳会談を長門市で開きたい意向など。
みすゞ通りを更に進むと、懐かしい音楽が流れてきた。「ロバのパン屋」のテーマソングであった。かっては都会で聞きなれた音楽が、仙崎では時を経て今も聞くことが出来るのだ。車が行きすぎてから、振り返って写真を撮っておいたが、パンを買えばよかったと残念な思いが跡をひいた。そうこうする内にみすゞの墓のある遍照寺が目の前にあった。ここまで来ると仙崎の半島状の先端も近い。ホテルに電話して、迎えの車を出してもらえないか聞いてほしいと佐藤さんに頼む。横で聞いていても、話がうまく進んでいるようだと分かる。待ち合わせ場所を聞かれたらしく、みすゞの墓の前と応えて貰った。ポンコツ車で良ければとか、少々時間を見てくれとか言われたらしいが、眞に些細なこと。気にかかっていた事柄だけに、ありがたかった。
やがて4人乗りの車が到着。乗るなり、今日の夕食は?との質問。どこかで調達したいと応えると、私も買い物があるから良い店に行こうと、即走り出した。みすゞ通りは駅方向への一方通行の道だから、駅前を抜けて深川湾方面に進んだ。こちらはみすゞが通っていた大津高女の方向だなと思いつつ乗っていた。金子みすゞを発見した矢崎節夫さんの文章や講演に接してきたので、仙崎のあらましは分かるつもりだ。もちろん、みすゞの詩を何度となく読んできたのがベースにある。今日、泊ることになった青海島シーサイドホテルに決めたのも、彼女の詩に歌われている「波の橋立」に立地しているからであった。夕食もビールもつまみも買い込んだから、すべて持ち込みと言う経済的な結果になった。みすゞ通りを歩いていて、ここで夕食をと思わなかったのは、時間的に早かったこともあるが、適当な店が見当たらなかったことにもよる。
買い物も終了し一路宿へ向う。今度は仙崎の町の東方、仙崎湾の海岸通りを走る。観光船乗り場、漁港を過ぎると弁天島辺りだろう。ここを詠んだ詩も印象的であった。
「あまりかわいい島だから ここには惜しい島だから 貰ってゆくよ、綱つけて
北のお国の船乗りが、ある日、笑っていいました うそだ、うそだと思っても・・・」
この先で仙崎の町は尽き、青海島との間には海峡が横たわっている。みすゞが渡し船で何度も渡ったであろう海峡に、今では立派な青海大橋がかかっている。渡り切った左手には王子山、そこから仙崎の町を眺めてみすゞは「竜宮みたいに浮かんでる」とうたっている。島の南西端を進むと、青海湖から流れ出る唯一の川を渡る。左手の深川湾に沿ってワシントンヤシ、続いてフェニックスが整列している。一方の右手、青海湖側に2階建ての白い建物が眼前に現れた。これが今日の宿・青海島シーサイドホテルで玄関前には数台の乗用車や作業車が停まっており、宿泊客は観光客だけではなさそうである。数年前までは通常のホテル形態であったが、今では一人のお手伝いさんをパートで来てもらって運営できる形態に切り替えたらしい。以来、送迎車はないのだ。
夕刻6時半過ぎであろうか、主人から“夕焼けを見ながら飲もう”と誘われる。フェニックスの辺りのテーブルに食べ物、飲み物類を運ぶ。浜辺の飲み会とは乙なものだ。
ご主人は車中でもしゃべり続けだったが、ここでも同様である。適当なお客がいれば、いつもこの類の場を持つことを楽しみとされているのが分かる。今日は我が3人が恰好の客として扱われたのに違いない。話は長州の先人のことが主題である。世の中では吉田松陰がもてはやされるが、村田清風が根幹であると結論づけられる。
少々暗くなり始めると、今度は食堂で続きをやろうとなった。その広さは堂々たるもので、かってのホテルの様をほうふつとさせる。我々3人が聞き手になっていたが、外出先から戻ってきた女性が加わる。彼女の聞きたいことは、やはり金子みすゞについての詳細であった。夫婦の車旅らしいが主人は顔を出さぬ。その女性は横浜・戸塚区から来たとのこと。港南区、磯子区、南区の3人に加えて、隣接区の住人が仲間に加わったのも、いとおかし。(高校時代の古文の授業で習った用語を使ってみたくなった) 明朝、仙崎駅までも送ってもらえることになり、朝食は6時45分と決定した。
8月4日(木) 高松ワシントンホテルプラザ @5,000円
仙崎07:45-07:49長門市07:52-(美祢線)―09:01厚狭09:23-09:57新山口10:28
-12:29岩国12:56-15:03三原15:15-15:48福山15:53-16:52岡山17:12-(瀬戸大橋線)-18:06高松
今朝は5時頃に目覚めてロビーで新聞などを読んでいると、まもなく主人が起き出してきた。朝食の準備などやることは多い。私は朝食前の散歩に出かけますと言っておいたが、せいぜい「波の橋立遊歩道」の往復だろうと、受け止めていたようだ。
私は朝食までの約1時間を、出来れば青海湖一周を目論んでいたのだ。阪川さんは腰痛もちだからダメだが、佐藤さんは声を掛ければ行きたいと言うだろう。遊歩道コースを事前に把握しておれば、途中から引き返してもらうことも出来たが、何の情報も持ち合わせていない。出発時点で起きていれば話も出来たが、姿を見せぬ。一周となれば、道程も定かではなく、出かけることにした。
遊歩道に入ってすぐの頃、湖の対岸から鐘の音が聞こえてきた。6時と言う定時に鐘をついているのだろう。いい雰囲気の中を進むと、やたら蜘蛛の巣が邪魔をするようになった。ということは、この遊歩道すら散策する人が少ないのかも知れぬ。枝を拾って、振り回しながら歩くことにしたが、整備された道で大変に歩きやすい。橋立の中ほどに来ると、みすゞの詩が遊歩道の案内板に添えられていた。文章で説明するよりも、詩の一番だけでも棒書きで引用したい。
【波の橋立】波の橋立よいところ 右はみずうみ もぐっちょがもぐる
左ゃ海原 白帆が通る 中の松原小松原 さらりさらりと風が吹く
この遊歩道は山口県が整備したものらしく、終着地点には駐車場やトイレ、シャワーの設備があった。
ここを抜け、間もなくすると道が3方向に別れている。本線は真ん中の道だと思われるが、かなり遠回りを強いられそうだ。時間の余裕が無い私は、湖に近い手前の道を選ぶ。ところがというか、案の定と言うか、その道は湖で行止り。やむなく、左手の田んぼのあぜ道、道とは言えないところを難儀して進むと、先の方に湖に注ぐ川がありそう。
救いがあって、丸太が2本渡してあり難局を乗り越えることが出来た。その先も田んぼで、川との間の道なき道を行く。ようやくコンクリート道に出ることが出来たが、時間を食った。ここまで来ると前進するしかない。時計を見ながらスピードを上げると、湖越し前方にホテルと思しき建物が視界に入ってきた。まだまだ距離があるので、ゆっくり田園風景を楽しんでいる余裕はない。どんどん進むと、昨日の車中から目にした風景に出会いほっとした。時間通りとはいかぬが、少々の遅れなら朝食を急いで食べれば良かろう。数分の遅れでホテルに戻り着いた。ご主人の朝は多忙で、我らを少しでも早く駅に送り届けたいようだ。急いで食べ、急いで手荷物類を整えて車中の人となった。仙崎駅でお別れしたが、楽しくも安い、思い出に残る宿となることだろう。青海島では他にも鯨の墓やくじら資料館、王子山公園等、行きたい所はあったが、青海島に泊ることが出来た幸せをかみしめる。
仙崎から長門市駅、続いて以前から乗ってみたいと思っていた美祢線の車中の人となった。そこで頂いたのが「JR美祢線利用証明書」で、発行しているのは美祢線利用促進協議会。こんな証明書に出会ったのは初めてで、何となくうれしくなってスクラップノートに貼付しておいた。「美祢線ガンバレ」とエールを送りつつ。終点の厚狭駅は山陽新幹線との接続駅だが、我らが乗るのは山陽本線である。翌日の帰宅の便を考えれば、横浜に近い京阪神地区で泊るのが良かろうが、面白みに欠ける。岡山辺りを検討している内に、青春18切符有効活用の観点から瀬戸大橋線に乗って四国に渡ろう、高松も思い出の地である。大学1年で初めて一人旅を体験したコースに高松が入っていた。岡山・後楽園、鷲羽山、小豆島、高松・栗林公園、屋島などを巡ったのだ。阪川さんに熊本行の旅を誘った当初は乗り気でなかったが、出身地の高松にも行くことが分ると参加しますとのは返事が返ってきた。佐藤さんも、今まで瀬戸大橋線に乗ったことがなく楽しみとのことであった。かく言う私も四国へはバス便が主体で、列車で渡ったのは一度きり。車窓から見る瀬戸内海の風景は楽しみである。九州、中国、四国を網羅して青春18切符を利用できるのも、なかなか味わいがあろうと言うものだ。
高松駅に着いたのは午後6時過ぎ。駅前にある高松城跡・玉藻公園の一画とも言える
高松琴平電鉄(琴電)高松築港駅から2駅目の瓦町駅に向う。琴電の中核駅で琴平線、志度線、長尾線が分岐しており瓦町で下車する我々はどの電車に乗ってもOKである。今夜の宿・高松ワシントンホテルプラザは駅から徒歩6~7分。駅前の東西の通りは菊池寛通りと名付けられていた。チェックインして手ぶらで夕闇迫る高松散歩は阪川さんにお任せ。フロントで頂いた「さぬきうどん食べ歩き」地図を片手に、すぐ隣のライオン通りに入る。少々歩くと「こんぴらうどん」があり、雰囲気も良さそうで早速入店する。ビールもうどんも美味い。女店員はインド美人で日本語も達者である。阪川さんが帰省時に利用する「さぬき麺業」と違って、値段が高めで気にいらぬ感触。しめて8,000円程度だったろう。ともかくビールの進んだ私は大満足である。
高松の商店街は全国的にも有名らしく、商店街活性化のための視察も多いようだ。南北の通りに比し、東西の細めの通りは飲み屋街が多いと阪川さん言。そんな話を聞くと歩いてみたくなる性分で、ライオン通りを早速左手に折れて貰った。続いての南北の通りは丸亀町商店街で、そこに風格のある重厚な建物が現れた。その前の説明板を佐藤さんが熱心に読んでいるので、私も近寄ってみると香川県を代表する地銀・百十四銀行の元本店であったという。現在は支店として現役で活躍中である。一方、本店は高松最大のメインストリート・中央通りに移転しているそうだ。銀行のすぐ先の商店街同士の交差点は、周りを3階建ての建物に囲まれ、上方はドーム状の素晴らしい屋根で、圧倒的な迫力で迫ってくる。各地から来られる視察団も、この構造物には打ちのめされるかも知れぬ。こんなのは我々の町では無理だと。このドーム屋根のすぐ近くには三越高松店が控えている。続いて兵庫町商店街を行くと阪川さん愛用の「さぬき麺業」があった。中央通りに出て南下すると、美術館通りなる名前に惹かれて左折する。今度は前方にエッフェル塔が現れた。そこまで行く気力も萎えてきたのでライオン通りを経てホテルに戻った。
8月5日(金) 帰宅日
高松7:48-(瀬戸大橋線)-08:45岡山09:19-10:21相生10:25-10:44姫路10:57-13:23米原13:30-14:03大垣⒕:11-15:38豊橋15:41-16:15浜松16:21-19:04熱海19:09-20:16大船-20:21戸塚
佐藤さんと6時待ち合わせでフロントに出たところ、阪川さんは既にタクシーで実家に向ったとのこと。今日は昨日とは反対方向に早朝散策とする。ホテル目前の通りを南下して常磐町商店街、田町商店街を経て中央通りに出る。ここを北上すると元高松球場の跡地が中央公園として整備されていた。公園北側には高松市役所、西方には県庁や高松高校、更に西に向うと香川大学、東側の中央通りに面して百十四銀行、香川銀行などが踵を接するが如く、高松の心臓部に当る。公園内に入り菊池寛の銅像を見学してから、公園を半周する形で番町交差点に出て、東方に向うとホテル前である。
阪川さんは墓参りも済ませ、兄貴から小遣いをせしめたとのこと。高松に来たかいがあったと言うもの。ホテルを7時頃に出て瓦町駅から琴電で高松駅へ。ここで讃岐うどん朝食を済ませる予定であったが、瀬戸大橋線マリンライナーの混み具合を勘案して、パンと珈琲の車中持ち込みに変更した。案の定、列車は混んでいて早めに乗り込んだのが奏功して座ることが出来た。土産物には「しょうゆ豆」が良いと勧められていたが、高松駅では見当たらず、諦めていたところ岡山駅で阪川さんが見つけてくれて2袋購入した。彼も岡山駅で手に入るとは考えていなかったらしい。
後はただ帰るばかりと思っていたところ、浜松から乗車した車両にはトイレ車がついていないことが判明し、私は途中の由比駅で途中下車とした。次の列車までタバコをゆったり吸うことが出来た。 乗車ダイヤ 由比18:19-18:43沼津19:04-20:31戸塚
由比ならず、沼津でも乗換時間が20分もあったので喫煙タイムを確保できた。それでいて、戸塚には当初予定の10分遅れで着いた。有終の美というところか。