菅原道真の蹉跌(3) 2月20日 飯田朝明

4 九州大宰府への左遷

 901年(延喜元年)正月になって間もなく、道真は、「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、25日に大宰権帥に左遷された。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、これを天皇は知らなかった。また同時に、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された。 彼と時平の関係は、対立的であったと捉えられるが、実際のところ両家は父親の代から関わりが深く、度々詩や贈り物を交わす関係であった。また、時平は文章家としての彼を高く評価してもいた。こうしたことから、道真の失脚は、単に時平の陰謀によるものではなく、彼に反感を持っていた多くの貴族層の同意があったのは間違いないとみられる。
 道真の太宰府への移動はすべて自弁で賄われ、俸給や従者も与えられず、政務に当たることも禁じられた。大宰府の通りには、零落した都で高位にあった貴人を見物するため大勢の人々が通りに満ち、彼は好奇な目に晒されて嘔吐を催したと言われている。そして、左遷から2年後の903年2月に、大宰府において、享年59歳で薨去した。衣食住ままならず、窮死に追い込まれたわけで、緩慢な死罪に等しい。 

5 道真怨霊となる
 908年(延喜8年)に道真の弟子だったが反対陣営に加わった藤原菅根が病死し、翌909年には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされた。913年には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。その後醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。930年、朝議中の宮中清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た事件があるが、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3が月後に崩御している。これらすべてが道真の怨霊がなせる業だと、都人は思った。 こうして、道真は、947年(天暦元年)に北野社において神として祀られるようになったのである。また、906年冬、嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰した。
 北野天満宮は、当初は道真の祟りを恐れて創建されたのだが、いつしか、彼の高い学識を尊ぶ学問の神社として崇められるようになり、今日に至っている。
(参考)「菅原道真・滝川幸司著:中公新書」等
(完)