菅原道真の蹉跌(その2) 2月17日 飯田朝明

3 道真の栄達と貴族層の誹謗・中傷
 道真は、讃岐での4年間の任期を終えて、890年(寛平2年)帰洛したが、この年、宇多天皇の厚い信任を受けていた橘広相が病没し、代わる側近として道真が抜擢され、翌年2月蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、彼はその役を辞任したいと願い出ているが、許されなかった。その後も、さらに昇進を重ね、893年2月には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列した。4月には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったという。 
 こうした貧門(家格が低いこと)の出である道真の昇進に対し、既存の貴族層は反発し、貴族としての務めをサボタージュするとともに、彼への誹謗と中傷を繰り返し、その足元を脅かした。そうした中で、彼は、895年先任者3名を越えて権中納言、権春宮大夫に叙任。翌年長女衍子が宇多天皇の女御となり、898年には三女寧子が宇多天皇の皇子斉世親王の妃となったことから、天皇との結びつきはより強化されていた。 
 宇多朝末期にかけて、左大臣の源融等の大官が相次いで没し、897年6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この二人が太政官の長となる体制となった。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く天皇に求め、時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。その後の醍醐天皇の治世でも、宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、彼は宇多の側近としての立場を保ち続けた。
 899年右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。道真は儒家であり家格が低いことと、出世に対する中傷が増えたため辞退したいと上申したが、悉く却下された。翌年には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された。そして、8月には祖父以来の文章・詩をまとめた家集を醍醐天皇に献上したところ、「尽く(ことごとく)金」と激賞されている。