正岡子規と野球(2) 10月1日  飯田朝明
その生い立ちと文芸活動
 正岡子規は、1867年10月14日(慶応3年9月17日)、伊予国(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚の長男として生まれたが、1872年、幼くして父が没したため家督を相続し、母八重の実家大原家と叔父の加藤恒忠の後見を受けた。彼は、藩の儒者である外祖父大原観山の私塾に通って漢書の素読を習い、その後末広小学校に入学したのち勝山学校に転校し、少年時代は漢詩や戯作、書画などに親しんだという。
1880年旧制松山中学に入学後、1883年同校を中退して上京し、共立学校(現・開成高等学校)に入学、翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、寄宿舎に入った。1890年東京帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、国文科に転科、このころから「子規」として句作を行った。日本海海戦時の連合艦隊の名参謀秋山真之は、松山中、共立学校で同級であり、夏目漱石と博物学者として有名な南方熊楠は、東大予備門の同窓であった。
その後大学を中退、1892年に新聞「日本」の記者となり、翌年「獺祭書屋俳話」を連載して俳句の革新運動を開始、俳句の分類や与謝蕪村の研究などに貢献した。日清戦争時、1895年彼は従軍記者として遼東半島に派遣されたが、下関条約が調印されたため帰国の途に就いたところ、その船中で喀血して重体に陥り、神戸病院に入院、須磨で療養後、松山に帰郷した。
彼は、短歌においても「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載、古今集を否定して万葉集を高く評価し、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、事物を客観視し写生するということを重視し、根岸短歌会を主宰して短歌の革新に努めた。同会は、後に伊藤左千夫、長塚節らにより短歌結社「アララギ」へと発展して行く。その創作活動は、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。