沖縄戦と牛島満司令官(その2) 7月17日  飯田朝明

2 第32軍司令官牛島満中将
沖縄戦において日本軍を指揮した、第32軍司令官牛島満は、1887年(明治20年)薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満の4男として東京で生まれた。満が生まれてすぐ父が急逝したため、同じく薩摩藩武家の出の母は、子供達を連れて帰郷した。
満は優秀で、亡き父の後を継ぐため軍人への道を志し、1901年に熊本陸軍幼年学校に入校した。幼年学校は全寮制で上下関係が厳しかったが、後輩は、「牛島先輩はいつもニコニコしていて親しみやすい先輩だった」と述べている。その後、1906年に陸軍士官学校に進んだが、身体を使うことに優れ、食欲も旺盛で、卒業時は恩賜の銀時計を拝受した。その後陸軍大学を経て、1918年シベリア出兵が始まったことからウラジオストックに赴任した。1919年に原隊に復帰した後、1920年8月から陸軍歩兵学校教官となった。その後も教育畑を歴任したが、指揮官としても旅団長として、武漢市、南京市攻略戦に参加し、戦功を挙げている。
牛島は、1944年8月第32軍司令官として沖縄に赴任した。前任の渡辺正雄中将がやや神経質な性格だったのに対し、牛島は、「常に悠々として迫らず、几帳面、面上微笑の絶えたことなし」といった風格を備えており、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼感を大いに増大させたとされている。
彼は、自決時、次のような辞世の句を残している。
「秋を待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国(みくに)の春に 甦らなん」
この歌は、杜甫の春望「国破れて山河在り 城春にして草木深し」を彷彿とさせ、日本人のメンタリティーにピタリと同調するもので、冷静で、かつ清々しく、明日への希望に満ちたものである。悲惨な戦闘の末残したものとしては、淡々とした様に驚かされるとともに、感動せざるを得ない。
                         (続く)