沖縄戦と牛島満司令官(その1) 7月15日 飯田朝明

1 沖縄の戦い
 昭和20年(1945年)4月1日アメリカ軍は、沖縄本島西側の中南部海岸に上陸した。先月の6月23日は77年目のその日になるが、岸田総理大臣が出席して「沖縄慰霊の日」追悼式が執り行われた。その摩文仁の丘には沖縄戦で命を落とした日米両軍戦士等の氏名を刻んだ「平和の礎」が築かれており、その向こうには、南国特有の青い海が広がっている。
 沖縄の戦いを象徴する言葉として「鉄の暴風」がある。上陸何か月も前から空爆が繰り返され、上陸当日だけを見ても、2時間余りの間に12センチ以上の砲弾、ロケット弾等9万発以上が、島を取り巻くアメリカ軍を主力とする連合軍艦隊から一斉に射撃された。上陸地点には日本軍の飛行場が2つあったが、戦わずして、アメリカ軍の占領するところとなった。日本軍司令部はそこから15キロほど南の首里城跡の地下壕にあったが、その前面の日本軍は、サンゴ礁の自然壕を利用して構築された多くの陣地に、小部隊ごとに分散配置されていた。アメリカ軍はそれを一つ一つ攻撃して前進し、日本軍は、少しずつ後退した。5月4日日本軍は、陣地から一斉に出撃して上陸軍を攻撃したが、損害が多すぎたことで、1日で中止となり、持久戦に戻った。
 その前後、日本軍は、嘉数や前田そしてシュガーローフ等では、山を盾にし、麓から山頂に進出する戦車を中心とするアメリカの大軍に反対斜面から砲火を浴びせ、何回も後退させるとともに、大きな損害を与えた。つまり、上陸軍には日本軍陣地が見えず、どこからともなく砲弾が飛んできて、その弾着はしばしば正確で、戦車多数が破壊されたのである。一方、こうした激戦で日本軍も戦闘員の多くを失い、首里城の司令部を維持できなくなり、島の南部に撤退せざるを得なくなった。
 南部においても、日本軍は、無数の強固な壕に潜みながら、激しく抵抗を繰り返し、上陸軍に大損害を生じさせたが、日本軍もまた日々多くの将兵が斃され、追い詰められた。こうして、6月23日牛島司令官と長勇参謀長の自決により、日本軍の組織的抗戦が終了した。また、この数日前18日、上陸軍最高司令官のサイモン・B・バックナー・Jr中将は、前線視察中、日本軍砲弾により戦死している。
 また、海上においては、連合軍艦隊は、1900機近くの神風機の特別攻撃により、多数の艦艇が撃沈され、損傷を受け、多くの乗員が死亡した。
 公平性を考慮して数字を示すと、沖縄戦の日本軍の総兵力は8万6400人(「約」を省略する。以下同じ。)で、大本営の南西諸島重視の方針もあり、当時の日本軍としては、火砲が充実していたといわれる。 また、このほかに、県民2万5000人を召集して防衛隊を組織したほか、男女学生多数を徴用した。
 また、アメリカ軍の参加部隊は、上陸兵力は最大時23万8600人で、支援艦隊の空母と戦艦21隻及びその他艦艇の乗員等を加えると、総兵力は54万8000人である。
 日本軍の死者は、7万5500人以上、沖縄県民の死者、行方不明者は14万8300人以上とされており、また、連合軍の死者は1万4000人、戦傷3万2000人で、このほかに戦闘不能者2万6000人を出した。
 なお、今次大戦ヨーロッパ西部戦線の最大の決戦とされるバルジ(ベルギー南東部の350〜500mの高地、アルデンヌの森)の戦いでのアイゼンハワー元帥指揮下の連合軍勢力は84万人で、ドイツ軍は50万人と言われている。このバルジの戦いでの連合軍の損害が、8万7000人とされているので、日本軍は、ほぼこれに匹敵する大損害を与えた。日本軍は30倍以上の火力(後述の八原説)に対峙したとされるが、ドイツ軍はその5倍の兵力で連合軍に匹敵する多数の戦車と優れた火器を有していたので、この面からも、日本軍の戦いぶりがうかがわれる。            (続く)