行く秋に寄せて(その1)    11月15日     飯田朝明

 ここ数日よく晴れた日が続いている。天空は青く澄みわたり、日本の秋が深まってきているのを感じさせる。人間界の今のコロナ禍にあっても、変わることなく、地球は太陽をめぐって動き、この季節の移ろいを演じてくれているのだ。
 私には、この季節、こんな青空を見上げると、すぐに思い浮かんでくる歌がある。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲  佐佐木信綱

がそれである。
 「ゆく秋」とは、過ぎ行く秋、晩秋のことで、ちょうど今頃である。「行く」は春と秋には使うが、夏と冬には使わないのだそうで、刻々と変化し、過ぎ去っていくのが惜しいような春秋という季節に合う絶妙な言葉である。
「薬師寺」は、奈良市西の京にあり、その東塔は白鳳時代の名建築で国宝であり、世界遺産でもある。この塔は、高さ34、1メートルの三重塔であるが、各層の屋根軒下に裳階(もこし)と呼ばれる庇が付いているので、六層に見える華麗な塔だ。
 秋がもう終わりを告げようとするころ、この古い塔を眺めていたら、空には一片の白雲が浮かんでいたということだが、この歌は、ビデオカメラのファインダーが、まず塔の下方をとらえ、それを少しずつ上方に移動させ、最後に塔先端部から雲へと向かうというような動きしているのを想起させる。そのためか、目にした情景を、水が流れるように、ごく自然に詠っているような印象を与える。
 この塔の先端部の相輪には、縦長の団扇のような形をした青銅製の水煙(すいえん)が装飾されており、それには、長い衣をまとって飛翔する天女の姿が透かし彫りにされている。その知識をあらかじめ持っていれば、塔を下から肉眼で見たときでも、よくは見えないはずの、その天女まではっきり見えるような気がしてくる。そして、塔の先端のその向こうには、一片の白い雲があり、その背後には、あくまで澄んだ青い空が広がっている。この歌は、そんなことを呼び起こすとともに、あたかも自分がそこにいるような感じにもさせてくれるのである。
 歌には空とか風とかいう言葉は一つも出てこないが、全体が晩秋の空気に包まれていて、空はきっと真っ青だろうということを誰もが感じるのではなかろうか。私には、これは、最初の「ゆく秋」と最後の「一ひらの雲」が大きな役目を果たしているとしか考えられない。
 「近代秀歌(永田和宏著・岩波新書)」によれば、「この歌は、すべて名詞だけから成る珍しい歌だが、これが少しも窮屈さを感じさせない。また、大和の国から薬師寺、塔と焦点を絞っていき、一転、視線を高く、遠くまで飛ばせて、一片の雲に移動させている。その対象の移動が、すべて「の」という助詞によって、規則正しく6回も繰り返されているが、これが、一首に、のびやかなリズムを与えている(要旨)」としている。