遠い遠い昔の思い出話(上)  9月9日 伊地知季

アフリカのケニヤと云う国で仕事をしてきた時の思い出すままの話。

 ゼネコンに勤めていた私は、職業柄仕事場は、内勤は別にしてあっちこっちと移動する。大規模工事の担当が多かったが、夫々にいろいろな事が思いうかぶ。 楽しかった事、つらかった事、そして多くの方々に出会い御指導を仰いだ事。 でも思い出は常に美化される様である。
 中でもアフリカのケニヤのエ事ではつらくもあり、又楽しくもあった非常に印象に残る現場であった。それまでは海を渡った経験の全くない私が日本から1万2千キロ離れたアフリカ大陸に行って工事を担当するなんて思いもよらない事であり、アフリカ地域における初めての工事に多くの不安を抱き、又子供達の学校の事も考えないではなかったが「社命とあらぱ」で、かっこよく即座に行く決心をした。
 工事はケニヤ国の首都ナイロビから南東約500キロ離れ、インド洋に面したケニヤ第2の都市モンバサと云う所に、当時のジャンボジェット機が離着陸出来る空港工事一式であった。大手商社と我社グループのJVで各社の特性を活かしてこの工事に当った。
ケニヤと云う国は地下資源の何もない所で、国の発展はモンバサを中心とした美しい自然に恵まれた紺碧のインド洋と真白い砂浜、そして有名なキリマンジャロの山と、それを背景にした自然の動物をキャッチフレーズにした観光産業にあって、その為には先づ玄関ロとなる空港を建設する事が急務であったわけで、工事事中は多くの人々から期待が寄せられていた。
 工事の内容は長さ3,350メートルの滑走路、そしてその誘導路、ターミナルビル、コントロールタワー、空港消防署、気象観測ビル、受変電ビル、アウターマーカー、ミドルマーカー等建物は合計12棟で、国際空港としての機能を発揮する全ての諸施設一式で大規模な工事であった。
地鎮祭には当時のケニヤッタ大統領が出席された。 設計監理はドイツとイギリスのコンサルタント会社の合併会社がこれにあたり、協力会社はイタリー、イギリス、インドその他、日本、ケニヤの業者でそれこそ国際色豊かな工事であった。家族を連れて行ける人は帯同が特別に許され、独身者以外は皆家族を連れてゆき同じ屋根の下に住んだ。当時現地にいた日本人は大洋漁業の一家と海外青年懐力隊の数人で10人とはいなかった。子供達は現地の白人子弟向けの学校に入れ、スクールバスを仕立てて通わせた。
 工事中の仕事に関してコンサルタントは大変厳しかった。 一つ一つの作業について許可を得て作業を進め、その結果を書類で受領し次の作業を進めると云う非常に手間のかかった作業であった。ある時工事中にターミナルビルに不同沈下が発生した。 地盤の再検査、使用された鉄筋は日本に送り研究所で強度試験を行った。又コンクリートの強度試験も行ったが、結論が出る迄作業は一時ストップさせられた。コンサルも我々も工事に保険をかけていた。結局は支持地盤の許可に不備があった事を認めその部分を補強して済ませた。我々は結論が出る迄仕事を休んでいたわけで、その期間の得べかりし利益も当然としてもらった。 仕事に関してはこちらも相手も「なあなあ」ではない。