CPCの会 庚申塔調査について    7月28日     青野正宏

1. 鎌倉の今昔探索の会(CPCの会)の現状
 鎌倉の今昔探索の会(CPCの会)は、地域社会(Community)に、写真(Photograph)を通じて貢献(Contribute)するということをテーマに、鎌倉市中央図書館近代史資料室に協力するという形で活動を続けています。10年間続けてきた鎌倉の谷戸の調査が完了後、庚申塔(塚)の調査に取り組んでいます。

2.庚申塔とは
 鎌倉を注意して歩いていると、墓石に似ていますが、それとは異なる信仰の対象となる像や塔、野仏、道祖伸、馬頭観音その他が道端や神社・寺院の境内で散見されます。庚申塔は、そのうちの有力なひとつです。庚申信仰は、インターネットで「庚申塔」をキーワードに検索すれば、解説が多く出てきますので、詳しい説明は省略しますが、道教と仏教が混合し、一部神道の要素も加味した土俗信仰です。甲乙丙・・・の十干と子丑寅卯・・・の十二支の組み合わせで庚申の夜に寄合を行い、徹夜で勤行や飲酒をする。干支の組み合わせは60通りありますから、約2ヶ月に1回となります。信仰にかこつけた飲み会という感じもなきにしもあらずと思います。一定回数(3年18回)続けると記念に庚申塔を建立することになっていたようです。鎌倉市内だけでも約九十か所近く、庚申塔が残っています。元々は村の辻や出入口などにあったのでしょうが、都市整備で邪魔になっても一種の信仰物だから、簡単に捨てるわけにいかず、神社や寺院の境内などに移され多く残っています。最近でも住宅の庭の敷地の一部の凹んだところに庚申塔があったのがマンションになって庚申塔がなくなったと思っていたら、近くに移されているのを発見したことがあります。(玉縄3丁目) 残っているのは江戸時代中期からで、一番多いのは江戸時代末期、明治以降は少なくなるが、調査したなかで、一番新しいものでは皇紀二千六百年というものがありました。
  鎌倉市では後述する「道ばたの信仰」という書物には、関谷方面でまだ庚申講を開催している写真が掲載されています。さすがに、今は実施されていませんが、谷戸の記録の調査でこの地を訪れたとき、その家の当主が庚申講に関するものは近くの二傳寺に納めて庚申講を終了したという話を聞きました。

3. これまでの調査
  鎌倉の庚申塔の実地調査は、これまで2度行われていて、1973年に鎌倉市教育委員会より「木村彦三郎著 道ばたの信仰」という冊子が市販されています。また、大学の研究紀要として、1996年に、堀孝彦氏が調査結果を「鎌倉の庚申塔」の名称で纏められています。
さらに、後藤辰郎氏が2005年頃に「道ばたの信仰」をベースに新たに発見したものも加えて、庚申塔の写真をWEBで公開しています(正面外観図)。また、文献調査が中心であるが佐藤光氏が1983年に大学卒業論文として考察した資料もあります
庚申塔が建立されてから、今日まで、長い月日がたち風化が進んでおり、彫られた文字の判読が難しいものも多くあります。「みちばたの信仰」で調査してからも50年近く経過しており、「みちばたの信仰」で解読できたものも解読できなくなったり、庚申塔そのものが失われたりしているものもあります。従って、過去の調査より条件は悪化していますが、過去より有利な点は写真が気楽に撮れるという点があります。コストをほとんど意識することなく撮影できますので、庚申塔の正面外観図だけでなく、側面・裏面・部分など、細かく詳しく記録できます。現場で彫られた文字を読むのが一般的に一番解読しやすい方法ですが、文字の解釈も後から見直すことも可能です。また、画像の色調調整により見えてくる文字もあります。その観点からはCPCの会のP(Photograph)が生きてます。調査結果の要約は別として記録をすべて紙に残すのは難しく、電子データとしてまとめることになるでしょう。
 調査をしてみると、意外に過去の調査に単なる解読解釈の相違を超えた記録誤りや記録漏れも多々あります。今回の調査も必ずしも万全とはいえないでしょうが、そういう点からも今回の調査の意義はあるでしょう。

4 今回の調査
 調査は主として図書館の平田先生が文字の解読(古文書の解読経験、古文書に出てくる氏名との対照などこれは素人ではとてもできない。)、信田氏がタワシやその他の小道具を準備して汚れを除去して解読の手伝い、原山氏が写真、私が大きさの計測や写真のバックアップ、当日の調査対象の資料の事前準備や結果のまとめを行うという自然に役割分担ができています。当日の光の加減により解読が容易であったり難しくなったりもします。必ずしも明るいのが最適でなく観察の角度によっても見え方が変わってきます。
 典型的な庚申塔の形式としては、正面に青面金剛の像を刻み、その上の左右に日と月の像、足元に三猿(みざる きかざる いわざる)、台座に庚申塔を造立した人たちの名をズラリと並べるといった形式です。それを典型としていろいろなバリエーションがあります。  ホームページのトップページ 行事カレンダー等の項目のなかにタイトル集という項目があります。過去に湘現会ホームページのタイトル背景(約2ヶ月に1回更新)に使用した写真(原山氏撮影)を掲載していますが、その38番目に十二所朝比奈切通入り口にある庚申塔の写真を背景に用いました。参考までに参照いただければ幸いです。
 調査のなかで一番面倒なのは、造立者の氏名を読み取ることです。「道ばたの信仰」では造立者氏名が記載されていますが、「鎌倉の庚申塔」は造立者氏名は大部分が省略されています。造立者の氏名を見れば、現在もその地に多くの家が残っている苗字が多いこと。明治時代に初めて庶民にも苗字がつけられたというのはウソであること(これは苗字研究の専門家も否定しています。)がわかります。また、名前も江戸時代の市井小説にでてくる江戸の町民の名とどことなく違いがあるなという感想を持ちました。
現在(令和3年7月)、旧鎌倉地域・腰越地域・深沢地域は一部を残して調査を終了し、大船地域に取り掛かり始めたところです。