歴史発掘    桂太郎―日露戦争を導き、支えた宰相 (その5)
          6月14日             飯田朝明


10 なぜ桂太郎は目立たず、正当に評価されなかったのか
初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任して以後、現在の菅首相まで、内閣総理大臣になった人は、64人である。その中で、安倍元首相に次いで長い任期を持つ桂太郎のことを知らず、また、何をなしたのかを知らない人がなぜ多いのかについて考えてみたが、以下のことに、その答えが隠されているように思う。
(1) 桂は、何をなしたのか
  戦争をマネージメントするという言い方をしたら、お叱りを受け、不謹慎ではないかというそしりが出ることも予想される。そのことを覚悟で話を進めたい。
戦争は政治(外交)の延長であるとされ、外交で行き詰ったことを戦争で解決するということだとよく言われる。このため、国の総力を傾け、国民全体を巻き込み、動員する戦争では、その過程でのマネージメントの良否が、戦争に勝利するための不可欠な要素になる。
そのマネージメントが最初から最後まで方向性と一貫性に欠け、上手くいかなかった結果、彼我の国力の懸隔と相まって、米国をはじめとする連合軍に敗れたのが、先の第二次世界大戦時の日本だったのではなかろうか。
これと比べて、日露戦争時の日本のマネージメントは、際立って巧みなものだったといえよう。すなわち、日本は、対ロシア戦に先立って、まず日英同盟という保険をかけ、仲介を米国に依頼するのも早々と手を打ち、早期の終結を目指すという基本構想を持っていた。また、講和をどのように決着するかについても、日本が受け入れられるか、受け入れられないかの条件をきちんと整理して臨み、その通りにすべて実行した。これらのことを全般的に主導したのが桂だったのではないかと、私は思っている。
もちろん、国民の絶大な支持を受けて、各前線における陸海軍軍人が英雄的な奮戦をしたことにより、この戦争に全般的な勝利を収めたことが、桂を助けたことは間違いない。とはいえ、有力な外国との同盟を結ぶことできたか否か、戦争を続ける中で、戦争目的と方針が一貫していたかどうか、更には、講和条件が戦争目的を満たすものであったかどうかなどの根本的なことが首尾よく進められなければならないのである。戦闘に勝っただけでは、戦争に勝ったとは言えず、国家としての目的が達成されなければ、多大な犠牲を払って戦争を続ける意味もなくなるのである。また、こうしたことが、上手くいかなければ、戦闘面においても、満足な結果が得られることはなかっただろうことは、想像に難くない。
 そういう意味で、桂は、逆風をとらえて、記録的な距離まで飛躍し、見事に着地した、スキーのジャンプ競技の金メダリストのような存在だと思う。なお、この逆風が、ただの逆風ではなかったことは、言うまでもない。
(2) 桂は、縁の下の力持ちだった
桂が日露戦争全般を導き、マネージメントする中で、一般国民は、戦争にどのように関わっていたか、時の政府をどう見ていたかである。
国民は、若者の多くは戦争に実際に兵士として参加し、その家族はこれを送り出して共に苦しみ、悲しみ、そして、個々の戦闘に勝利したときには熱狂した。そういう国民から見れば、旅順や奉天での戦闘、対馬沖での海戦、それに伴って、次々に生まれる英雄的な将兵、これらは大関心事であり、新聞等も大々的に報道もするので、国民の目や意識は、いやがうえにも、こうしたことに集中した。
一方、政府部内で行われている戦争指導や講和の動き、そして、戦費の調達などについては報道も少なく、というより、むしろこれを隠して進められることが多かったため、国民はその実像を知ることが、ほとんどなかったのである。
要するに桂のなしたことは、家屋であれば、土台や柱などの目に見えない構造体であって、目につく外装や内装、調度品ではなかったのである。確かに、桂は、こうしたことを彼一人でなしたわけではない。小村という有力な相棒もそばにいた。ではあるが、そんなことを言い出したら、元勲の伊藤博文も昭和の元勲と言われる吉田茂も事情は、まったく同じであろう。
すなわち、桂は縁の下の力持ちだったのである。だから、彼のしていたことは、家の外側からは見えなかったのである。
(3) 桂は、宰相だった
 「宰相」とは、君主に任ぜられて国政を行う最高の行政長官である。また、「内閣総理大臣」とは、内閣を構成する閣僚のうち、首席の者である。
 内閣総理大臣は、明治憲法下では、日本は天皇が統治する国だったので、それは、宰相そのものだったと考えられる。ところが、現行憲法では、国民主権となっているので、象徴天皇が形式的には任命はするが、実質的には国民が選んでいるので、本来の意味の宰相ではない。
以上により、桂は「内閣総理大臣」にして、いわゆる「宰相」だったのである。
桂内閣は、発足当初は、小山縣内閣、二流内閣などと揶揄され、長くは持つまいとみられていた。当初は伊藤、山縣など元勲の力が強かったが、日露戦争の過程で、外交案件は、桂と小村は、二人で決めたことを実行することを決意していた。戦争が進むうちに、ついには、伊藤ら元老は立案自体には参画しないようになり、桂と小村が決めた案を二人で伊藤ら元老に説明して、了解を得る形で決定されるようになった。
明治天皇は、桂を信任し、本来は参謀総長の山縣に諮詢すべき、戦争の進行状況についても、だんだんと桂にするようになっていた。また、天皇は、日露戦争前の時期の各国との条約改正に当たり、英国との交渉が難航して進まないため、条約破棄を主張し始めた、当時の大隈重信外相に危うさを感じていたといわれる。これらのことから、天皇は、御自ら国政をお考えになっていたことが推察されよう。
明治憲法下では、宰相がなすすべては、天皇がなしたものだったのである。それ故に、宰相は、出過ぎてはいけない、輝き過ぎてもいけないのである。桂は、そのことに忠実で、与えられた立ち位置から踏み出すことはなかった。
とはいえ、桂は、日英同盟成立の手柄を一人占めにしようとしたと言われる。ではあるが、これは現代にも通じるような欧米人のような感覚で、自分のしたことは正当に認めてほしい、栄誉も欲しいということで、その気持ちも分かるし、人間味さえ感じさせる。
こうして、最終的には、桂は、当時の華族制度の頂点の地位である公爵まで昇り詰めるのである。                                      (続く)