歴史発掘    桂太郎―日露戦争を導き、支えた宰相 (その4)
                 6月11日           飯田朝明


8 日露戦争
 日露戦争は、明治37年(1904年)2月から同38年(1905年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で、朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって行われた戦争である。
 このころ、日本政府内では、山縣、桂、小村らが対ロシア主戦派であり、伊藤、井上馨らが戦争回避派で、その両者の間で論争が続いていた。そういう中で、ロシアとの関係が急速に悪化してきたため、戦争開始の前年4月に上記の5人のうち井上を除く4人が京都の山縣の別荘で会談し、「満州におけるロシアの優越権を認めるのと引き換えに、朝鮮問題を根本的に解決することを目指して交渉に臨み、この目的を貫徹できなければ、戦争を辞さず」との対ロシア交渉方針を決めていた。なお、伊藤は、対ロシア戦に一貫して消極的で、恐露症と言われるほどであった。
 これに対して、ロシア側は、中朝国境を流れる鴨緑江の河口に軍事拠点を築くなどしたばかりか、清国との間の条約で撤兵することになっていた満州からの撤兵を実行しなかった。こうした状況から、日本の新聞世論も開戦一辺倒となり、日本政府は、ロシア政府に対し、国交断絶を通告後、2月10日に宣戦布告を行った。
日本陸軍の第一軍は、朝鮮半島に上陸、4月30日から5月1日の鴨緑江下流域での戦闘でロシア軍を破り、続いて第二軍が遼東半島から上陸し、半島付け根の南山のロシア軍陣地を攻略、更に、日本軍は合流して満州南部の遼陽を攻撃し、9月4日に占領した。その後、遼陽と奉天の中間を流れる沙河河岸の戦闘でも勝利し、ロシア軍の拠点奉天へ向けて進撃した。その間、ロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けたところ、ロシア軍は遂に撤退し、3月10日奉天を占領した(奉天会戦)。
これとは別に、ロシア海軍の拠点が遼東半島先端部の旅順に設置されており、港内にロシア軍旅順艦隊主力が停泊していた。同艦隊を撃滅するため、旅順港を一望できる203高地等の攻略をめぐって、約4か月半にわたって激しい攻防戦が続けられ、日露両軍とも甚大な人的損害を出しながら、日本軍は、これを占領し、ロシア軍は、港内の艦船を自沈させたのち、降伏した(旅順攻囲戦)。
一方、ヨーロッパ方面を守備していたロシアバルチック艦隊は、極東の戦闘に加わるため、7か月に及んだ航海の末に日本近海に到着したが、5月27日に東郷平八郎元帥率いる連合艦隊と九州対馬沖で激突、29日までの海戦で、艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して、連合艦隊は喪失艦艇が水雷艇3隻というような、日本の一方的な勝利に終わった(日本海海戦)。
こうして、陸海の戦闘が日本側の勝利に進む中で、ロシア側も和平に向けて動き出した。
なお、その後、和平交渉の進む過程で、日本軍は、樺太攻略作戦を実施し、樺太全島を占領した。
戦争中の日本軍の死者は8万8,429人、ロシア軍の死者は8万1,210人、捕虜約7万9,000人とされており、両国ともに、甚大な人的損害を被った。
また、日本の戦費総額は約18億円とされており、日露開戦前年の政府一般会計歳入は2.6億円なので、いかに巨額の戦費を費やしたかが分かろう。

9 ポーツマス条約の締結
 米国のセオドア・ルーズベルト大統領は、日本海海戦の後、日本の要請を受け、日本・ロシアに対し講和勧告を行い、両国は、これを受諾した。
 両国は、明治38年(1905年)8月10日から米国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、日本側全権は、小村寿太郎と高平小五郎駐米公使(副)が当たり、ロシア側のウィッテ全権との間で交渉が行われた。
ロシアは、それまでの個別の戦闘には敗け続けたが、国力が日本を上回っていたため、戦力にも大きな余力を残しており、戦争自体に敗けたとは思っていなかった。そのため、この交渉は、難航を極めた。
日本政府は、それに先立つ同年4月の閣議で、講和条件を決定していたが、それによると、絶対的必要条件として挙げられたのが、「日本の韓国支配権の獲得」、「日露両軍の満州からの撤兵」、「日本の関東州租借権の獲得」、「ロシア保有のハルビンー旅順間鉄道の経営権の日本への譲渡」であり、相対的必要条件としては、「軍費賠償」、「樺太の割譲」が挙げられていた。これを見ても、桂らが、その段階で勝利しているからと言って、過大な要求を持ち出すようなことはなく、戦争目的を踏まえた妥当な落とし所を見失わなかったことが分かる。
講和条件の中に、軍費賠償の1条があることを知った満州軍総参謀長児玉源太郎は、「桂の馬鹿が償金を取る気になっている」と怒声を発したとされているが、強硬な国内世論のことを考慮すれば、入れざるを得ない条件だった。
なお、児玉は、桂と共に明治陸軍の3羽ガラスと目されており、桂の無二の親友でもあった。
  このような講和交渉をめぐって、ロシアに大勝利したと思っている一般の国民の意識や感情を背に受けて、政党や世論は、極めて過大ともいえる条件による講和を主張した。特に軍費賠償の実現は欠かせない条件であった。ところが、日本側の戦力は枯渇しており、すでに戦費も極めて大きなものとなっているため、これ以上の継戦は不可能というのが、政府内部と軍の一致した認識となっていた。ただ、このことは、国民には言えないことで、ロシア側にそれが伝われば、足元を見られて、もっと強硬な姿勢で交渉に臨んでくることは、必定だったからである。
交渉が進行する中で、こうした国民の認識や世論をいかに政府側に近付けるかで、桂は奮闘する。このため、当時の中心的な政党である立憲政友会の最有力者だった原敬と折衝し、政府の条件による講和妥結に反対しなければ、次の内閣は、同党側に渡すという提案を行う。原は、自党のために日本のギリギリの利益を犠牲にしかねない態度と行動をとっているのに対し、桂は、国の利益のため、自分の内閣をつぶすことの方を選んだのである。結局、ほとんどの政党が妥結反対を叫び、民衆が日比谷焼き討ち事件などを起こして強行に反対する中で、原は慎重に対応すべきだとして党員に自重を促し、立憲政友会は、最後まで反対運動に加わらなかったのである。
交渉の過程で、小村は軍費賠償と樺太の割譲を持ち出すが、ロシア側は、とても飲めないとして、ウィッテは、帰国の準備をしだす。これらは当初の条件に入っていたが、小村が独断で行うとは考えられないので、ここでも、桂が、これを指示して、ロシア側と日本の国内世論の双方をにらんだ、大勝負に出た、すなわち、交渉の切り札として使ったのではないかと思われる。
 日本側は、最終的には軍費賠償を取り下げ、9月5日にポーツマス条約が締結された。その内容は、前述の絶対的条件はほぼ満たすもので、相対的必要条件のうち、軍費賠償は放棄したものの、樺太南半分の割譲を得るというものだった。
妥結後、伊藤は、桂の葉山の別荘を訪ね、「おまえの言うとおりになったよ」と言って喜び、祝杯を挙げ、二人は手を取り合って泣いたそうである。このことからも、桂が、この講和会議における日本の対処方針や対応を主導したことが読み取れる。(続く)