史発掘  桂太郎―日露戦争を導き、支えた宰相 (その3)
                 6月8日                  飯田朝明


6 小村寿太郎を外務大臣に起用、一体となって外交を推進
  桂は、内閣総理大臣になると、外務大臣に小村寿太郎を起用することにした。彼は日清戦争時に第三師団長として、清国での戦闘に参加しているが、その時、小村を知り、意気投合したとされている。
小村寿太郎は、安政2年(1855年)9月生まれなので、桂より7歳よりもっと年下である。体が小さく、身長は145センチほどしかなかったと言われている。第1回文部省海外留学生に選ばれて米国ハーバード大学に留学したが、驚異的な記憶力の持ち主で、かつ勉強家であり、英語が堪能で他の外国語にも通じていた。桂との出会いは、彼が清国の公使館に勤務しているときで、当時第1軍司令官だった山縣からも高く評価されていたといわれる。
 小村は、諸外国の情勢を猛勉強して、日本の国力や世界における立ち位置を的確に把握し、自分の頭で外交政策を考案し、これを自ら実行するという、高い識見と行動力を持つ外交官だった。外交関係について、シンクタンクもあり、スタッフも確保されている今では、ちょっと考えられないような、当時は、そういう時代でもあった。
桂内閣の外交は、事案について小村がまず立案したのち、桂とともに検討、協議して、その実行は、桂と一体となって当たったとみられる。この内閣がなした、日英同盟締結、ポーツマス条約締結、それに続く、条約改正、日韓併合等の明治の外交上の画期的な成果を成し遂げられたのは、この2人のコンビネーションがあったからだと思われる。
 こうしたことから、桂の功績は、まず小村を見出して外務大臣に起用したことであり、次に小村の外交政策と判断をよく理解し、これを採用したことである。両者間に意見の相違があったこともあり得るが、外交を推進する上での足並みは、終始乱れることはなかった。また、桂でなければなしえなかったと思われることは、当時は元老筆頭の伊藤とそれに次ぐ実力者である山縣の同意なしには、重要事案は何も動かない状況にあったが、桂は、小村と一体となって、この2人と他の元老らに対し、外交上の重要事案をよく説明し、上手く説得して、外交を進めたことである。要するに、桂は、いわゆる根回しが極めて巧みだったということであるが、これには、伊藤と山縣が長州の先輩であるばかりか、山縣はいわゆる親分だったことが、大いに助けとなっていた。

7 日英同盟の締結
  日英同盟は、桂が首相になる以前から、日本の大きな外交目標とされていたが、
実際の交渉は、桂の時代に急速に進展する。
  まず、当時日の没することのない、栄光ある孤立を誇っていた大英帝国が、なぜ日本のような小国と同盟を結ぶことを考えたのかである。これについては、それまで、ずば抜けた経済力と軍事力を持っていた英国も、この頃には、南アフリカでのボーア戦争により疲弊し、ドイツの台頭にも押されるようになり、遠い極東でロシアとは戦えない状況になっていたからで、日本という「アジアでの番犬」が必要になってきたというのが、その実情であった。
これに先立って、日本は日清戦争に勝利したこと、更に、映画の「北京の五十五日」で描かれた、義和団により外国人居留地が包囲された義和団事件の八か国共同出兵では、その主力として日本軍が目覚ましい活躍をしたことを英国は評価していたと言われる。
 英国側から同盟の打診があったときも、日本側は、当初は、英国と同列にロシアも同盟の相手とすることを考えに入れており、伊藤がロシアに出かけて、ロシア側との交渉にも当たっているところだった。
このような状況から、英国は、これをダブルディーリング(二股交渉)とみなし、日本側にくぎを刺す事態となった。これを受けて、山縣と桂は、英国を選択することを決めて交渉に臨んだが、なかなか折り合わなかったところ、最終的には、英国側が譲歩案を出して来たため、これを受け入れ妥結したものである。
日英同盟は、その主旨を端的に言えば、一方の国が戦争するときは、他の一方の国は中立を保つ(現実に即していえば、日露が一騎打ちのときは、イギリスは中立を保つということ)、また、第3国が相手国側に立って参戦するときは、他の一方の国は参戦する(例えば、フランスがロシア側に立って参戦すれば、イギリスも日本側に付いて参戦すること)ことになっている。なお、この場合の中立とは、国際法上の宣戦布告をして交戦国になること以外は、味方として便宜を図ることを、つまり、武器を取って戦う以外のすべての援助を行うことを意味していた。
一方、伊藤のロシアとの交渉は、ロシアの態度が極めて非妥協的だったため、伊藤はあきらめて帰国することになった。この伊藤のロシア行きに先立ち、桂は、ロシアとの協商などを独断で決めてこないようにと、念押ししていた。
以上の経緯は、2つの世界的な大国を向こうに回しての、桂の大きな策略とも言えるもので、ロシアと交渉をしていることをイギリスに見せつけて、結果的には、イギリスの譲歩を引き出したわけで
、桂の戦略的思考の確かさを示すとともに、その心意気と、向こう気の強さに感嘆せざるを得ない。                         (続く)