歴史発掘   桂太郎―日露戦争を導き、支えた宰相 (その1)
                6月2日      飯田朝明


はじめに
桂太郎は、明治時代から大正時代にかけて、3回にわたり内閣総理大臣(以下、特記するもののほか、「首相」又は「宰相」という。)となり、安倍前首相が一昨年その記録を破るまで、通算在籍日数、2,886日という最長の期間、首相の座にあった人である。にもかかわらず、明治の元勲として誰もが認める伊藤博文や山縣有朋と比べると、存在感はほとんどなく、彼が何をしたのか、また、どんな功績があったのかなどを思い浮かべることのできる人は、実のところ、極めて少ないのではないかと思われる。
ところが、明治維新の日本にとって、その進路の大きな分岐点であり、また最大の国難であったとも言える日露戦争の全期間にわたって首相だったのが、桂太郎その人なのである。すなわち、日露戦争は、明治37年(1904年)2月に開戦し、翌38年(1905年)9月にポーツマス条約締結により終結したが、第一次桂内閣の期間は、明治34年(1901年)6月〜同39年(1906年)1月で、その戦時期と直前の3年弱が完全に重なるのである。
司馬遼太郎の日露戦争をテーマにした歴史小説、「坂の上の雲」を読んだ方は多いと思うが、その中では、日本海海戦でロシア艦隊を破った連合艦隊司令長官東郷平八郎提督と秋山真之参謀や旅順攻囲戦で難攻不落の203高地を陥落する決め手となった働きをした児玉源太郎、そして、ポーツマス講和会議で日本の全権代表としてロシアとの難交渉に当たった小村寿太郎らのことは、詳細に描かれ、また、高く評価されている。その一方で、この本を私が読んだのは30年以上前ではあるが、彼のことに触れた記述の記憶が、まったくない。
桂は身長こそ高くないが、当時日本で一番大脳が大きかったと言われており、その容貌や立ち居振る舞いなどから、世人は、人と会ったときニコッと笑って肩をポンとたたくから「ニコポン宰相」、八方美人以上なので「十六方美人」、酒宴の興を助けるのを業とする太鼓持ちのようなので「幇間」等のあざ名を付けて、揶揄したと言われている。
そういう桂太郎について、私は最近「桂太郎―日本政治史上、最高の総理大臣」(倉山満著・祥伝社発行)という本を読んだのだが、その結果、実は、彼は日露戦争を宰相として導き、支え、これを勝利に導いた、大功績を挙げた人物だったのではないかと考えるに至ったのである。
そこで、前述の本などを参考にしながら、桂太郎の実像に迫ってみた。

1 桂太郎の生い立ちと青年期の戊辰戦争参加
  桂太郎は,弘化4年11月28日(1848年1月4日)長門国萩城下(山口県萩市)で長州藩毛利家の重臣の藩士桂與一右衛門の長男として生まれた。 負けず嫌いで、意地っ張りの少年だったようで、吉田松陰の親友であり、松陰亡き後は松下村塾を引き継いだ、母方の叔父、中谷正亮から海外情勢も教わるなどして多大な影響を受け、このころから外国に行って知識を得たいと思っていた。
やがて青年期になると、戊辰戦争に参加し、慶応4年(1868年)3月、桂は第4大隊第2中隊司令官に任命されて仙台へ向かうが、同年4月最上河畔の戦いで官軍は破れ、自軍は退却、惨憺たる敗北に終わった。その後、東北各地を転戦するが、華々しい戦功はなく、負け戦が多かったという。
戊辰戦争が終わったころは、桂は21か22歳の青年だったので、使われる立場であり、連絡係のようなことをしていたが、彼が接したのは、木戸孝允、大村益次郎、西郷隆盛などの各藩の重要人物であり、この頃から、人との折衝面の能力が評価されていたことがうかがわれる。

2 ヨーロッパ留学
明治2年(1869年)9月、桂は大村益次郎の口ききで横浜語学所に入学し、フランス語を勉強した。その後、留学しようとするが、官費留学がかなわなかったので、私費留学の道を選んだ。彼は明治3年(1870年)8月横浜港から出発したが、ちょうどその前月に普仏戦争が勃発、当初留学先はフランスの予定だったがプロイセンに変更する。当時のプロイセンは、鉄血宰相として有名なビスマルクの指導のもと、デンマークとの戦争、オーストリアとの戦争に相次いで勝利し、急速に大国化してきた国である。
桂は、日本も兵制の改革を行い、プロイセンに倣って帝国陸軍の制度を設けなければならないと考え、同国の軍政を研究した。これは3年半に及んだが、その間、明治6年(1873年)3月に明治新政府の首脳がこぞって参加した岩倉遣外使節団がヨーロッパにやってきたとき、彼は通訳を兼ねて同行している。
その後桂は資金がなくなって帰国するが、明治7年(1874年)1月に陸軍歩兵大尉に任官する。彼は任官後間もなく参謀局設置を建議し、陸軍参謀条例を制定させている。なお、プロイセンは、1871年1月に同国が中心となってドイツ帝国を成立させているので、以後の記述は、これを「ドイツ」とする。
明治8年(1875年)、桂はドイツ公使館附き武官に任命されるが、その派遣自体が自分の発案であり、この事実上の留学では、軍事行政に関する調査研究に没頭すると同時に、法律や経済一般の知識も不可欠であるとして、ベルリン大学の講義にも出席した。
ドイツ滞在時には、桂は、ビスマルクに招かれて面会した際、同席していた参謀総長モルトケ将軍から軍政、軍略などの意見を聞いていたとされ、その後、将軍は桂を愛し、自分の副官に命じて、様々な便宜を図ってくれるようになった。プロイセンを周辺国との戦争で連戦連勝させた英雄に、こうした知遇を得るようになったことからも、彼が並みの日本の青年(28歳位か)ではなかったことが分かる。         (続く)