私的鎌倉案内 踏切編その6

権兵衛踏切 1.846Km 山ノ内字宮下小路715-1 (山ノ内580)
  名前の由来は、この踏切の傍にあった地域一帯の大地主小泉権兵衛からきている。踏切の設置に寄与したためであろうか。この踏切の先の谷戸の道を登ると高野の住宅地となるが、以前は広い農地であった。この農地に農作業に行くため必要な踏切と判断したのであろうか。もっとも大船本村川にも豪農があり、距離的にはこちらのほうが近いから、推測があたっているかどうかはわからない。小泉家の邸宅は線路踏切傍にあり、現在はマンションになっている。線路際の樹木は残されており往時を感じさせるものになっている。
 踏切旧標識の大船駅からの距離とアドレスに訂正の跡がある。これがなにを意味しているかはわからない。

権兵衛踏切 権兵衛踏切標識旧
踏切傍の旧小泉家跡のマンション 権兵衛踏切標識 新

第二鎌倉道踏切 1.492Km  亀井628 (台1959)

通称「小袋谷踏切」である。鎌倉街道にかかる踏切であり、交通の難所である。車の渋滞が激しいところである。その理由は、踏切西側の小袋谷交差点が戸部方面への県道との合流/分岐点になっていることもある。さらに、小袋谷交差点は小さな路地を無視すれば丁字路であるが、直進の道より折れ曲がる道のほうがメインである。押しボタン式歩行者用信号は別として、鎌倉方面からは常時黄色点滅、小袋谷踏切と戸部方面からは常時赤色点滅となっている。こういう方式は神奈川県下でもここだけらしい。これでは交通整理がつかず渋滞の一因ではないかと思っていたら、どうもそうではないらしい。この方式のほうが渋滞しないそうである。詳しくはこちら参照
 正月に鎌倉の車乗り入れ規制は、この小袋谷交差点のところで行われる。北鎌倉(山ノ内は、行政的にも地勢的にも大船地区の一部と捉えることができるが、文化的には建長寺・円覚寺・浄智寺・東慶寺があるため、旧鎌倉の一部とみることができ、この小袋谷交差点は旧鎌倉の北の関所と捉えることができる。

第二鎌倉道踏切 第二鎌倉道踏切標識旧
今小路踏切標識新

第一鎌倉道踏切  1.291Km  八反目680
 鎌倉街道に交差する踏切ではないが、この踏切は旧鎌倉街道の踏切である。旧鎌倉街道は小袋谷交差点点から県道を少し北に行ったところに水堰橋があり、ここから旧鎌倉街道が分かれている。車のすれ違いが難しいほどの細い道だが大船三郵便局あたりまで、横須賀線や県道を斜めに横切る形で伸びている。明治15年の地図を見ると田圃が大部分の大船地域をこの道のみが現在と同じように伸びている。現在の大船三郵便局あたりにから現在の大船郵便局あたりまで小山が3つ、点々と連なっている。地蔵山、長山、腰山の3つであったが、田圃のなかの丘陵なので離山(はなれやま)と呼ばれていた。現在ではバス停、バス道路名にその名を残している。明治15年の地図を見ると、この離山の北の裾を通って笠間方面へと延びている。離山は崩されてなくなってしまったが、大船三郵便局近くの富士見地蔵尊の裏手はやや小高くなっている。また、三菱電機近くの体育館あたりもその両側にある三菱電機前の通りや大船小学校と比べると少し高くなっているのはその痕跡であろうか。今はなくなってしまったが、現在のデニーズの駐車場あたりには崩し残しの小高い土の塊があったことを覚えている。
 この踏切の傍に浄土真宗の寺、成福寺がある。親戚の菩提寺なので、法事や墓参りに良く行くが、頻繁に踏切の警笛と電車の通過音を聞いている。ちなみに、この寺には九州の浄土真宗の寺出身の笠智衆の葬儀が行われ、墓もあったが、今は九州に移転しているらしい。
 標識のアドレスには大字八反目680とある。八反目は成福寺背後の亀甲山一帯を指す地名で小袋谷町域の一部にすぎないが、大字と呼べるほどの広さではないがどうだろう。

第一鎌倉道踏切 第一鎌倉道踏切標識