鎌倉の庚申塔調査 第3回 二階堂
            2019年3月14日(木) 快晴 岡部美千代記 青野構成補記

 今回は二階堂地区から紅葉ケ谷付近を調査する。

1.覚園寺大門跡 3基
 バスで鎌倉宮に下車し覚園寺方面に向かう。かつて覚園寺の大門があったという場所に、庚申塔3基と宝筐印塔や五輪塔の残欠が置かれている。今ここは、天園ハイキングコースの入り口となりまた住民のゴミステーションになっている。
左側の庚申塔は舟型で来迎の印相の阿弥陀如来が肉彫され、その下には正面を向いた三猿が並んでいる。如来の右側には「延宝五天(1677)十二月十七日」左側に「奉造立庚申供養」 下の壇正面には「施主七人敬白」さらにその下の壇には「講中」と刻まれている。 “道ばたの信仰”によれば十二所の石切場跡にある延宝四年塔を小型にしたようによく似ているという。
 中央の駒形は上辺に日月の浮彫、中央には「青面金剛王」その下の岩座に三猿が足を伸ばして座っている。このような状態のことを“行体”というらしい。右側面には“道ばたの信仰”では「文政七戌申季穐(1824)」と記されているが実際は「文政七歳戌申季龝」と「歳」の文字が入っている。さらに造立者の名が台石にあると記されているが今は不明。ちなみに季穐とは秋九月のこと。
 右端の角柱は正面に「庚申塔」右側面に「萬延甲稔(1860)十二月」と刻まれ、左側面に「施主 大村仙蔵」と刻まれる。大村氏は渋谷氏と共に江戸時代の覚園寺大工だった。

2.稲葉越(参考)
 鎌倉宮に戻り今回も少し寄り道をし、稲葉越の道である稲葉橋を渡り理智光寺跡に向かう道の右手にある大きな古民家へ。ここは元鎌倉で校長先生をしていたという小牧家で、かつては護良親王の墓守をしていたという家で、広い邸内には関東大震災でも倒れなかったという江戸時代の蔵と昭和初期に建てられた古民家と広い庭園があり、今は「古今(ここん)」というイタリアンと民泊を営んでいる。蔵の中には数多くの古文書があり、護良親王の墓守に関しても残されていた。現在は鎌倉中央図書館に寄贈されている。

3.紅葉ヶ谷 1基
 庚申塔の調査に戻り紅葉ケ谷に向かう。瑞泉寺に行く道の左側に荏柄天神の御旅所となっている空き地があり、この地はかつて山の中腹にあった熊野神社の参道の入り口となっていた。正面唐破風付笠塔婆の庚申塔1基と三社権現と刻んだ角柱が立っている。三社権現とは熊野権現のことで、明治の神仏分離で熊野神社は荏柄天神に合祀されたが“としよりの話”によれば、熊野神社のあったところを赤星氏は、崖をやぐらみたいに掘り、その中に鎌倉石で組んだ高い祠を見つけたがその後の宅地造成の時に土の中に埋め込まれ見つからなくなったという。
 庚申塔は塔身を花頭形に削り、正面に蓮台に乗った合掌阿弥陀如来を厚肉彫し下辺に台座に乗った「聞かざる」が彫りつけてある。左右の側面も同様で右は「造立庚申供養敬白」と刻んだ下に「言わざる」、左側面は“道ばたの信仰”では「天和三年十一月甘三日」となっているが今は「天和三年亥丙(1683)十月甘一日」と刻まれる。その下には「見ざる」が彫りつけてあり、正面下辺の枠に「二階堂村講中」とある。

4.瑞泉寺 1基
 次に瑞泉寺に向かう。300段の階段を上がり山門の手前右側に1基の庚申塔がある。この塔は市の指定有形民俗文化財に昭和40年3月30日に指定されている。元は山門の左寄りにあったが、いつ頃か移動した。有形民俗文化財を示す標識が新しいので良く見ると平成31年3月とあったので、新しく作り直され設置された直後であった。
 板状駒形で正面上部の左右に日月を彫り中央に邪鬼を踏んで立つ六臂の青面金剛が肉彫りされ、左中手に人間の頭髪を握って吊り、右中手に剣を持ち、左上手には輪宝,下手には弓を握る。右上手には矢を持ち下手は羂索を掴んでいる。足元にはユーモラスな顔の邪鬼、その下の三猿は動的。青面金剛の左右に二童子の浮彫り、三猿の下に牝雄の鶏が彫られている。
 “道ばたの信仰”には台石右面に「庚申之供養」「享保八年三月八日」「施主」その次に施主の名を刻んであったが塔を移すときに台石は埋められてしまったと記されている。

今回の調査はここまでとする