中村/城宿/清水小路/植谷戸/七曲谷戸

 城廻には字城宿から字中村に続く中規模の谷戸がある。まず、この谷戸の入口である坂口まで大船駅西口からバスで向かう。谷戸入口の県道302号線沿いに関谷地蔵堂があり、堂のなかに地蔵他が安置されている。地蔵堂の前には「相模国 準四国八十八所 十八地番 関谷地蔵堂」と刻まれた石柱が立っている。また、歌が刻まれた碑も横に立っている。この碑は昭和55年建立と刻まれており比較的新しいものである。この地蔵堂を見ていたとき、お茶を供えにきた人がいた。聞けば谷戸の道を挟んだ隣の食堂の人で、毎月一日にはお神酒を、節目の日にはお茶等を自発的に供えているとのこと。この地蔵堂はこういう人々で支えられていると感じた。また、この地蔵堂は、元々はこの近くにあったが、道路の拡張工事でインター近くに移したところ、事故が多発したので、元の場所近くの現在の場所に移したそうである。

関谷地蔵堂 中村付近

 中村から城宿に続く谷戸に入る。昭和40年代にこの谷戸を歩いた経験があるが、そのときは、家は多く建っていたが農家が多く、谷戸の道の左右は小高い尾根で、比較的長くそのような道が続いていたので、鎌倉市内でもこのような山奥の山村の雰囲気があるところがあるのかと感じていた。今回あらためて歩いてみると、住宅は新しくなり、数も増え、また谷戸も広がっている感がある。新たに谷戸の斜面を切り崩して宅地造成しているところもあった。それでも、ところどころ農家またはその名残を残している家もあり、昔を偲ばせるところがあった。
 谷戸の入口から奥に向かって左側(東北側)は比較的丘陵が残されているが、右側(西南側)は、丘陵の上が宅地開発されているため、谷底の道を歩いていても、谷戸を歩いているという雰囲気がかなり失われている。左側には、寒司谷戸、治兵衛谷戸と言う名の枝谷戸があったが、中村の谷戸の入口に近い寒司谷戸はその奥の方が宅地造成地の幼稚園となっていて小さくなっているが、住宅が途切れているのでわずかに谷戸の名残をとどめているといえないことはない。治兵衛谷戸は谷戸の痕跡がほとんどない。
 城宿バス停付近まで来ると中村・城宿の谷戸は2つに分かれる。主要な道は左側のバス通りで陣屋坂の上の登りつめるが、まず左側の清水小路の道を行く。清水小路の左右の丘陵は宅地開発されて住宅地となっており、清水小路がその間の旧道として残されている。清水小路の道は谷底の道としてやや低いところを通っているが左右に丘陵の緑があまりないため、谷戸を歩いている感があまりない。この道を登りつめたところが藤沢市との境界でこの道をさらに進んで下っていくと、フラワーセンター前から柄沢橋を通って藤沢市街に進む県道302号線に出る。この県道を通っているバスのバス停の名は、現在は「渡内第三会館前」であるが、従来は「関谷入口」であった。清水小路は、藤沢市村岡方面から鎌倉市関谷に向かう間道であったということを示している。

城宿(清水小路出口付近) 清水小路

 城宿バス停付近まで戻り、バス道路を先に進む。まっすぐ進むと谷戸は丘陵の尾根に近い山腹の陣屋坂上に出て、そこから陣屋坂を下るか、あるいはさらにまっすぐ進むと七曲坂の上に到達することになる。今回は、谷戸がほぼ尽きるあたりで右に曲がり、しばらく進むと急な坂道を下る。この坂はふわん坂と呼ばれている。この坂を下りきると県道302号線に出る。県道に出るところに    庚申塔と道標がある。これは元々藤沢市との境あたりにあったものが道路工事に円光寺付近に移された後、再度移され現在の場所に安置されたものである。
 久成寺に寄った後、県道をコーナンモールの先まで進む。このあたりは字相模陣でひとつの大きな谷戸となってあり、昭和20年代は農地が多く谷戸であることが感じ取ることができたであろうが、谷戸の幅が広く現在は住宅が密集しているので、あまり谷戸の雰囲気は感じられない。県道の左側の陣屋坂下も窪地となっており、谷戸と言えないことはないが、周囲にマンションが林立しているため、谷戸の雰囲気はない。
 コーナンモール先の交差点から北側の道に入る。この道の歩道の下は暗渠となっており、植木小学校付近からこの暗渠を通り、フラワーセンターの西端を通って柏尾川に合流する川である(花の川)。この暗渠のある道のあたりは植谷戸(または植木谷戸)と呼ばれる谷戸である。昭和20年代は植木地区の北部に位置する大きな谷戸であったが、谷戸の西側の丘陵は残っているが東側の丘陵はあまり残っていないため、谷戸という実感はあまりしない。また、龍宝寺トンネルを潜る県道 402号線ができて広い道路となっているため、この谷戸の道は単なる脇道となってしまっている。この暗渠の道が県道402号線と合流する少し手前で左(西側)に曲がる。ここが、植谷戸の枝谷戸である七曲谷戸である。谷戸の入口には鎌倉には城廻(平井家)、手広(内海家)、大船(甘粕家)と並んで残っている小坂家の長屋門がある。七曲谷戸は入口から200mほど進んだところでこども園が谷の奥となっている。ここから七曲坂となり、途中には冠木門が作られており、玉縄祭りなどのときには幟が坂の途中に数多く立てられる。ここで七曲の谷戸の調査を終えた。

ふわん坂 七曲坂 七曲谷戸最奥部