昭和29年の洗馬谷戸の地図(鎌倉市図書館蔵)に現在の道路を重ねたもの。紫のしるしは横穴墓のある箇所。左の茶色の幾何学的線の道は造成された住宅地の道。洗馬谷戸の枝谷戸のうち、西側の枝谷戸(奥谷戸)と東側中央の枝谷戸は比較的形が残っている。横穴墓のある枝谷戸は東側の山際ははっきりしているが、西側の尾根道との段差ははっきりしない。横穴墓のある枝谷戸の東側の枝谷戸は、埋め立てられたのか谷戸の形は残っていない。
モノレールの跡と洗馬谷戸

 平成29年12月21日は、歩こう会の行事と重なったためか、一般会員の参加はなく、CPC会員5名のみの参加であった。9時半に大船駅に集合し、観音山下の切通から栄光学園前まで進む。途中の交番前から栄光坂を半分ほど登ったところにある玉縄こいぬ公園から、前回探索した谷戸池周辺の谷戸が俯瞰できる。
栄光学園前から右手の方向に進めば、玉縄台住宅地の南部になるが、丘陵の造成地であり、特に見どころもないので、まっすぐに坂を降り、玉縄台バス停まで進む。このあたりは龍宝寺谷戸と呼ばれていたところで、龍宝寺が現在の位置に移転するまで存在したところである。最近まで進行方向に向かって左側に女子修道院が2つ並んであったが、栄光学園に近い修道院(聖母訪問会大船修道院)が取り壊され、更地となって不動産会社の管理地となっていた。この下り坂は谷戸の形とはなっているがが、宅地開発の影響で元の谷戸の形とはだいぶ異なってしまっている。
玉縄台バス停の交差点から右に向かう。現在、近くにある福祉センターの名にちなんで「すこやか通り」と名付けられている道は「梨ノ木谷戸」といわれた比較的大きな谷戸の谷底の道である。途中で谷戸池から横浜市の長尾台に向かう道があった南北両方向に枝谷戸があったはずだが、それに相当する地点まで行っても、そこから坂になっている程度で、枝谷戸があった名残はあまり感じられないほど宅地造成により変貌している。「すこやか通り」の突き当りに近いところまで行くと、横浜との市境近くに至り、まだ農地が少し残っている。この市境には大船とドリームランドを結ぶ幻のモノレールの線路があったはずだが、その気配は残っていない。もし、モノレールが順調に稼働していれば、おそらくこのあたりに駅ができて大船への交通の便は良かったろうにと思われる。この「すこやか通り」の突き当り地区から市境に沿って谷戸池方面と山道でつながっている。この道は大船方面への近道として利用されているようである。
「すこやか通り」突き当り地帯から戻る。宅地造成前に長尾台に向かう道があったところに相当する玉縄台住宅地を周回している道を150m程度、北に行き、長尾台に出る山道の入口まで行く。その入口付近にある小さな農地で農作業をしている人が、偶然、探索メンバーの一人と知人であったため、いろいろ話を聞く。その小さな農地は厳密には横浜市で農地の端が鎌倉市とのの境界にあたるとのこと。この境界の上にモノレールの線路があったとのこと。長尾台に至る山道は現存しているが、その出会った人自身が危険を避けるため、一部道をつけ直しているため、厳密には同じではない。

昭和63年11月3日 国土地理院公開の空中写真より
 この時期ま、モノレールの線路は撤去されず残っていた。下の農地は、今回最初に訪れた場所。農地として現在も残っているが、家が建ち始めている。上左側のちいさな農地は、後に訪れた場所。農地の右側にモノレールの線路があるのがわかる。農地と森林の間に黒く見える筋(影と思われる)は長尾台に抜ける道。


 玉縄台バス停まで戻り、一筋西から洗馬谷戸に入る。洗馬谷戸は養護学校前を谷の入口として、短いが多くの枝谷戸に分かれるアメーバ状の形態をしている。そのうちの枝谷戸のひとつの奥にある横穴墓があるところまで行く。現場についても何も見当たらないが、駐車場の背後にある藪の中を強引にこじわけて入っていくと、標柱が建っている。そこから左手の方に大きな横穴があった。線刻画があったらしいがなにも見たらない。その横穴の右に穴の上部だけ見えるものがあった。後でWEBの記事を探すとこれらの上にさらに2つ横穴があり棺座なども確認できるらしいが、横穴墓自体の調査が目的でなく、この枝谷戸に横穴墓があることが確認できたので、目的を達したということで、次に進む。
 奥谷戸と呼ばれる一番西の枝谷戸を通って洗馬谷戸の入口方面に向かう。洗馬谷戸の多くの住宅は普通の宅地造成地にある平凡な住宅が多いが、奥谷戸にある住宅は古さを感じさせるものが多い。しかし、戦前からの農家というほどでもない。昭和29年の地図を見ても住宅はほとんどなかったようである。比較的早く住宅が建てられたのであろうか。洗馬谷戸入口近くの東側の枝谷戸には大きな農家が見受けられ、この枝谷戸に昔からの洗馬谷戸の集落があったようである。
 養護学校前の洗馬谷戸の出口近くに、最近造成された丘の上の住宅地がある。高度成長期であればともかく、最近交通の便の悪く高度差のある丘の上の造成住宅地は空き家が多くなり衰退気味であるというのにわざわざ新たに宅地造成することはないと思うが、それはともかくとして、周囲の谷戸の状況が俯瞰できると考え、この住宅地に登る。この住宅地から、洗馬谷戸の奥谷戸が見える。また、北側真下に大きな古い家もある下坪の谷戸も見える。さらに、関谷小学校の先には、県道の北側にある石原谷戸、芹ヶ谷谷戸などが遠望できた。この造成住宅を越えて打越に降り、この日の調査を終えた。



青野 記