栄光の道
続々鎌倉の谷戸の記録 玉縄編 をまとめるため、谷戸探索の結果に考察を取り込んでメモとして作成したものです。
 報告書の編集後の内容とは、かなり変わってくると思います。
 岡本神社・龍宝寺の記述には鎌倉中央図書館 平田恵美氏による追記を取り込んであります。


(1) 大谷戸周辺

探索記録
平成29年11月27日、鎌倉の今昔探索の会は、「谷戸の記録玉縄編」の第1回として谷戸池周辺・龍宝寺付近等を回った。参加者は10名であった。
午前9時30分に大船駅南口改札口に集合し、まず、大船駅西口バスターミナルから、観音山南側の切通を進む。この切通の道は明治時代からあり、現在は、柏尾川沿いを除く玉縄の各地区と大船駅とを結ぶ大動脈のバス道路となっている。その西側は大谷戸と呼ばれる谷戸となっていた。バス道路から進行方向右側(北側)を望むと一段低くなっており、普通の住宅に混じって旧家を思わせる古い大きな住宅が点在する。バス道路をフラワーセンターから来る道と交わる手前で、右(北側)に降りる道があるので、下っていくと、奥や山沿い沿いには古い家や、家は新しくしていても元農家だったなとわかる家がいくつかあり、谷戸であったことを偲ばせる。

考察
 大船観音下の切通はいつできたのであろうか。「玉縄の歴史と文化」302ページによると、昭和33年に土地の収用開始、昭和35年にはできていたとあり、それまでは細くてきつい坂道であったという。昭和29年の地図や空中写真で見るとと、柏尾川近くで道が途切れている。現在の大船観音参道かそれに近いところから、入場料を取る門の下の道がカーブするところあたりまで登ってっていたのでないかと思われる。


昭和29年の観音下切通 茶色の線は現在の道(鎌倉市所有地図より)

(2) 谷戸池周辺(栄光の道)
探索記録
 大谷戸を抜けて、谷戸池に向かう。フラワーセンターから西北方向は幅の広い大きな谷戸状となっており、住居表示整備前はその入口部分は「内耕地」と呼ばれる字で奥は単に「谷戸」と呼ばれる字であった。その「谷戸」の中心にある灌漑用の溜池が谷戸池である。この谷戸池の北側に2つの小さな枝谷戸(名称不明)がある。西側の谷戸は戦前より住宅があり、山崎にあって練習用飛行機を製造していた富士飛行機の幹部の社宅であったという。戦後、栄光学園が開校し、いわゆる栄光坂(大船西口バスターミナルから玉縄交番前を経て栄光学園・玉縄台方面に抜けるバス道路)ができる前に、栄光学園の生徒が通っていたという道があったという。この富士飛行機社宅があった枝谷戸に入り、地図にも現地に設置されている看板にも玉縄台の住宅地に登る道らしきものが描かれていたので登って見ることにする。地元の人は登れないと言っていたが、石段の道は存在していた。しかし、辛うじて通れるほどに荒れており、玉縄台住宅地まで登ることはできても住宅の裏側に出るだけで、私有地に阻まれて普通の道路に出ることができない。あきらめて断念し、谷戸池方面に戻った。一応通学路であったかもしれない道を見つけたことで満足することとした。


廃止された谷戸池北側の枝谷戸から玉縄台に向かう道。

考察
「玉縄の歴史と文化」302ページによると、栄光の生徒は「ふんがけ坂」と呼ばれる坂を登って通学していたようである。「玉縄の歴史と文化」巻末の地図によると栄光学園正面から真東に「岡本道」、「ふんがけ坂」が続いて描かれている。この位置には、現在「商船三井」のマンション型社宅が建っている。どうも通行を試みた石段の道ではなく、社宅があったあたりに通学路があったのではないかと思われる。

昭和39年7月 開校直前

また、同誌によると、昭和41年に坂道(栄光坂)の工事をしている写真があるから、栄光坂の開通は昭和42年ごろであろうとしている。しかし、栄光学園の卒業生と思われる大学教授のホームページにある栄光学園の歴史には、昭和40年9月に開通とあり、
(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-P/eiko/history.html) 
昭和40年11月6日撮影の空中写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)でも道が完成しているように見受けられるので、「玉縄の歴史と文化」が引用した写真の撮影場所か時期は誤りであろうと推定される。昭和39年9月に栄光学園は移転していると上記栄光学園の歴史のページにあり、谷戸池周辺から通学していた期間は1年間と思われる。


昭和40年11月

また、通行をあきらめた石段の道の先は、昭和29年の地図を見ると、現玉縄台住宅地を経て、長尾台・田谷方面に通じていた道のようである。玉縄台住宅地部分はそれに近い道路はあるものの、住宅地の道路として設計されたもので同じ道とは言えない。しかし、後日該当地域を探して見ると、長尾台に抜ける山道は残されていた。

  
  昭和29年                  長尾台に抜ける道

 谷戸池東北側にもやや大きな枝谷戸があり、上記地図では、現玉縄台方面の谷戸と分離しているように見える。しかし、昭和21年の空中写真を見ると連続した農地となっている。現在、谷戸池東北側はマンションなど住宅地となって形状が大きく変わっているが、玉縄台に抜ける山道は残っており、玉縄台住宅地東部に抜ける道としていまでも良く利用されているのでないかと思われる。(この道を通ったとき、複数の住民らしき人と出会った。)

  
 昭和21年                    東北側の谷戸から玉縄台に抜ける道

(3) 岡本神社
探索記録
谷戸池方面から内耕地西側の山際の道をフラワー方面へと向かう。栄光坂南側は小南谷戸(こみなみやと)と言う。しかし、谷戸を形つくる尾根のうち、北側の尾根が栄光坂によって崩されているため、あまり谷戸らしい感はない。南側の尾根の中腹にある岡本神社に登って谷戸方向を眺めると、わすかに谷戸の名残を感じられた。平成10年に地元の旧家T家によって復元された岡本神社は別称お伊勢山神明神社といわれ、平安時代にさかのぼる由来が神社前に記されている。見晴らしが良く、先ほど歩いて来た谷戸池の辺りや大船観音が見渡される。

考察
小南谷戸 昭和29年と平成26年の地図を比較すると、小南谷戸は昭和29年にははっきりした形となっていたことがわかる。また、栄光坂と谷戸池の間も谷戸になっていることがわかる。(「玉縄の歴史と文化」によれば、下谷戸(しもやと)という。) さらに付け加えるなら、谷戸池新旧池の形を比較すれば、東南側にある児童遊園は谷戸池を一部埋めて作ったことがわかる。、
   
昭和29年                     平成26年

(4) 龍宝寺
探索記録
 岡本神社から山を越して龍宝寺に出る山道もあったらしいが、通行困難ということで、下からフラワーセンター近くまで進み、そこから県道のトンネルを抜けて龍宝寺前にでる。龍宝寺はひとつの谷戸全体を占めている。この谷戸を暗殺された将軍実朝の首を持って逃げ込んだという伝説の残る七騎谷戸という。龍宝寺は、近年に限ってみても、小学校や捕虜収容所があったとか郷土史の宝庫のような場所であるが、それらについてはいろいろな郷土史資料に記載されているのて、ここでは割愛する。(ちなみに龍宝寺谷戸という名の谷戸は元々龍宝寺があった栄光学園前から玉縄台に降りていく道の谷戸を指す。) 龍宝寺で本堂がある谷戸の奥まで進んだ後、入口近くにある民俗歴史資料館で玉縄の地形や玉縄城の立体模型図等を見学した。平面的な地形図で見るより玉縄の元々の地形が把握しやすい。その後、諏訪神社を訪れた。ここで時間切れのため、この日の調査を終了した。


空中写真は国土地理院が公開しているものを一部切り取って掲載しています。