北鎌倉西部探訪記

監修・文追補 平田恵美(鎌倉市中央図書館近代史資料室)
写真 原山正征(鎌倉今昔探索の会)  文 青野正宏(鎌倉の今昔探索の会)


 めずらしく晴天に恵まれ、10時に北鎌倉駅前に集合し、まず東慶寺を目指した。鎌倉街道を歩くのをなるべく避けるため、本来の円覚寺境内の外側の道である牛馬道(通称うまみち)を歩く。交番前の石垣手前に立っている「東京湾要塞地帯標石」(昭和16年7月20日)を見ながらうまみちへ入る。一見変哲もない道であるが、寺院境内の垣根の外の道という感が残っており、江戸時代の絵図にも載っている古い道である。この道を過ぎると、やむを得ず歩きにくい鎌倉街道を通って東慶寺に着く。東慶寺の門前には、おりしもTVで夏目漱石のドラマが放映されて話題となっているが夏目漱石参禅の碑が入口に向かって右手にある。その他この寺には著名人の墓・碑が多数あるが、本日の目的は谷戸の形状を観察することにあるので、それらをあまり見ることなく、境内に入ると真っ直ぐに奥を目指す。足元の低い垣根に野ブドウが巻き付いていて秋の風情を感じた。東慶寺の門は鎌倉街道から高いところにあり階段を数十段上って境内に入るが、入口近くの建物や庭園のあるところは比較的平坦に作られている。100mあまりの奥行の建物・庭園の部分を過ぎると墓地に入る。墓地は谷戸の奥になり階段を登りつつ奥に進む。さらに100mあまり進むと谷戸の一番奥中央に旧一高の寮の碑である「向稜塚」というものがある。大きい岩で苔むしていた。この石をワイヤーで運び上げたときの傷が途中の石段に付いていた。そこから振り返って東慶寺の谷戸を見渡す。墓地の地帯は谷戸を切広げられてあり、三方の山際は石垣で保全されていた。

 谷戸の一番奥から入口方向へ戻り、墓地と建物・庭園の境目あたり、入口に向かって左側に日本有数の仏教関係の書籍を集めた松ヶ岡文庫に向かう道がある。一般参観者は立ち入り禁止であるが、特別に許可を貰って山道の階段であるこの道を進む。階段上から木の間越しに東慶寺の屋根が見えた。急な階段を登り切ったところの左手に数棟の別荘風建物が点在しているのが松ヶ岡文庫で、ここもあらためて立ち入り禁止の表示がある。松ヶ岡文庫そのものが目的でないので、そのまま進み、今は草に覆われた三上次男先生の旧宅を見ながら山道を下ると牛馬道の端に戻ってくる。

 
東慶寺境内                            松ヶ岡文庫

 もう一度、鎌倉街道を鎌倉方面に向かう。今度は東慶寺を右に見てさらに進むと、鎌倉街道が横須賀線を越えて建長寺方面に向かう踏切がある。横須賀線はこの踏切から先は、狭い谷を進み扇ヶ谷隧道を経て旧鎌倉市内に入る。この谷が尾藤ヶ谷である。踏切の横に線路に沿って西側に山道があり、徐々に高くなっていく。この道を奥に進む。途中に墓地がある。崖の岩が脆くなっており、岩が墓地の中に転がっているのが見受けられた。途中に人家がある。さらに進み、横須賀線扇ヶ谷隧道の真上に至る。横須賀線電車を真下に見下ろし、尾藤ヶ谷全体を奥から眺めて山ノ内地区を遠望することができ、いわゆる「撮り鉄」が喜びそうなスポットである。ここから先はすぐに谷の一番奥であり、道らしい道もないので引き返す。扇ヶ谷隧道近くにもう1軒アトリエ風の民家があり、道の傍には菜園もある。小倉遊亀の家があると聞いていたが、よくわからない。横須賀線踏切まで戻った後、浄智寺の谷戸に入り、小倉家入り口のトンネル前で地図を確かめて、横須賀線隧道の前の家のほか、見えることがなかったが数軒の家があり、小倉遊亀、小津安二郎の旧居であることを確認した。出入口が別の谷戸にあるという変わった住宅は西御門にもある。(出入口は御谷)

 再び、鎌倉街道、牛馬道、北鎌倉交番の前から路地を通って光照寺に向かう。路地の途中で「おちゃぶきさま」、光照寺で「おしゃぶきさま」を見る。「おちゃぶきさま」が素朴な石の積み重ねであるのに対し、「おしゃぶきさま」が既製品の石の祠であるのがやや興ざめである。光照寺からさらに坂を登り切ったところから西ノ台の台地の真ん中を真っ直ぐ通っているのが、いわゆる海軍道路であるが、今回は谷戸の観察が目的なのでそちらに向かわず、西ノ台にある谷戸の最奥部に降りて、台峯側にある台の稲荷神社に向かう。台の稲荷神社には小野田泉里句碑とその説明版がある。説明板は、以前うっすらとではあるが辛うじて読むことができたが、今は全く読むことができなくなっていた。他にも明治10年に西南戦争で戦死した人の碑もある。稲荷神社の境内からは六国見山、北鎌倉、大船方面等の遠景が良く見渡せ、目的とした西ノ台の谷戸も見下ろすことができた。稲荷神社から戻り、台の本村となる西ノ台の谷戸を奥から入口に向かって歩く。台の地蔵がある公会堂に登ってみたが、あまり見通しは効かなかった。本村であるため豪農を思わせる広い家もいくつかあった。この谷戸は、海軍道路が走っている台地と台峯の間に挟まれているため、一応谷戸といえるが、あまり谷戸らしい雰囲気はない。また、「かまくら子ども風土記」によれば、東渓院という寺があったそうだが、痕跡はなにも残っていない。

 
小倉遊亀旧居と尾藤ヶ谷を谷の奥から見る         台稲荷神社より手前が西の台の谷戸 中央が      
                                   西の台の台地 遠景は北鎌倉から高野台へ

 この谷戸を出て神明神社の前から海軍道路が走っている台地の反対側の縁の道を通り、小袋谷の水堰橋のところへ出る。ここに風化が進んだ道標が立っている。表面に観音像と、「右とつか 左ふじさわ」の字が見える。ここから旧鎌倉街道を通って踏切の先にある成福寺に出る。成福寺の裏山にあたるのが亀甲山(かめのこやま)である。亀甲山の西南側はまだ緑が残されているが、東北側は完全に宅地となっている。成福寺の横から山頂の厳島神社を横に見て、亀甲山を横断し、鎌倉街道に出てこの日の調査を終えた


―-鎌倉市中央図書館近代史資料室 鎌倉の今昔探索の会編纂予定の「谷戸の記録 大船・深沢・腰越編」の原稿の材料とし
て作成―-2016年11月


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